2025年8月17日(日)
- shirasagichurch
- 8月17日
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【聖霊降臨節 第11主日】
礼拝説教「神の言葉に生かされて」
柳田 洋夫 牧師(聖学院大学チャプレン・人文学部教授)
<聖書>
テサロニケの信徒への手紙一 2:13-20
<讃美歌>
(21)26,9,55,402,64,29
パウロは、「あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と言います。「受け入れた」という言葉は、原語ではお客をもてなすために用いる言葉でもあったようで、「歓迎した」とか「歓待した」と訳すこともできます。となると、テサロニケの教会の人々は、パウロたちの説教を神の言葉として大切に「おもてなし」するがごとく熱心に聞いて受け入れたということになるでしょう。私たちが共に礼拝を献げているこの教会においても、聖霊の助けを共に祈り求めつつ聖書の解き明かしを聞く、そのことにおいてこそ聖書の言葉が神の言葉として新たに立ち上がり、生きた言葉として働くということが起こるはずです。
14節から16節にかけては、私たちがどのようにして受けとめたらよいのか戸惑うような激しい言葉が連ねられています。パウロ自身がもともとはユダヤ教徒、ユダヤ人でした。そればかりか、その指導的存在であり、イエス・キリストを信じる者の迫害の先頭に立っていました。それほどまでにキリスト教会に対するものすごい迫害者であったパウロが、その迫害の真っ最中にキリストの声に打たれ、劇的な回心体験を与えられ、キリスト者としてのまったく新しい生き方へと導かれました。そのような元ユダヤ教徒であったパウロにとって、そもそもの同胞であるユダヤ人は、決して単なる敵や非難の対象ではありませんでした。ローマの信徒への手紙第10章11節と12節にはこうあります。「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」。ユダヤ人だろうがギリシア人だろうが区別なく、同じ主が、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる、このパウロの言葉にこそ、彼の真情は込められていると思われます。ユダヤ人とはイスラエルの民のことでもありますが、彼らは、そもそもは神から最初に選ばれ導かれた民でもありました。そうであるからこそ、逆に、同胞たるユダヤ人に対し、いわば愛憎の入り混じったような激しい言葉を吐かずにはいられたかったということもあるかもしれません。
しかしそれは、単なるパウロの単なる一時的な感情や偏見に基づいた言葉であったというわけではないでしょう。それは、パウロ自身、キリストによって救われて初めて気付かされたことから発せられた言葉でした。つまり、「神の言葉」を神の言葉として聞くことができず、それゆえに愛を見失い、平気で自分とは異なる者たちに迫害を加えていたかつての荒れすさんだ悲惨な自らの姿を今やはっきりと認めている、そうであるがゆえにかつての古い自分の姿を再現しているかのようなユダヤ人を見過ごすことはできなかったということです。そうなると、ここで、パウロの言葉が時代や状況を超えて私達自身にも迫ってきます。つまり、神の言葉をほんとうに神の言葉として受け取ることを拒否するとき、神に喜ばれることをやめ、そして人への愛に生きることができなくなるということです。少なくともそれがパウロ自身の体験でした。
しかしながら、再びテサロニケの教会に目を転じてみるならば、厳しい状況にありながらも、テサロニケの人々は実際に神の言葉を神の言葉として感謝と喜びをもって受け入れる歩みを続けていました。第1章3節を振り返ってみますと、このようにあります。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。神の言葉が現に働いているその奇跡を目の当たりにしているパウロの喜びは、本日与えられている第2章19節と20節の言葉にもあふれています。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」。やがてまたキリストがおいでになる、再臨されるとき、自分がキリストの御前にお見せできるものは何であろうか。それは、自分が持っている何かとか、自分が成し遂げた何らかの手柄などではない。テサロニケの教会の人々のことこそ、自分がキリストの御前で誇ることができるのだとすら言える、それほどまでの喜びであると言うのです。自分が宣べ伝えているのは、ただ自分自身が受け取ったキリストの死と復活についての神の言葉以外何ものでもない、そこに自分自身の功績、手柄などというものはありえないと自らをとらえているパウロの偽らざる心境であると思います。
最後に、若くして亡くなったキリスト者であり詩人である八木重吉の詩をひとつ紹介したいと思います。「聖書をよんでも/いくらよんでも感激がわかなくなったなら/聖書を生きてみなさい/ほんのちょっとでもいいから」。何となくわかるような、しかし一方ではまた謎を投げかけられるような詩であります。「論語読みの論語知らず」という言葉があって、それは表面上の言葉だけは理解できても、それを実行に移せないことのたとえでありますが、それと同じように「聖書読みの聖書知らず」という言葉があってもよいかもしれません。実際に聖書そのものを生きてみる、それは確かに大事なことと思われます。しかし、そもそも聖書を読んで感激が湧かなくなったときに、聖書を生きてみることなどできるのか、と思われるかもしれません。ただ、実際に聖書をいつも燃えるような感動を持って読むことができないということがあるにしても、それはまさに私たちの罪ゆえであり、まさにそのような私たちの罪の身代わりとしてキリストは十字架にかかられたわけです。ですから、あえて申し上げますならば、テサロニケの人々やパウロのように、私たちもいつも喜びにあふれていなければならないと、ことさらに義務的に負担を感じる必要もまたないと思います。八木重吉の詩を一歩進めて解釈してみるならば、キリストにつながっているならば、私達自身の主観的思いを超えて、すでに聖書に生かされている、神の言葉に生かされているということが起こっている、そのようにも言えるのではないかと思うのです。そのことはまた、聖書を神の言葉として聞き続ける中で、ほんのちょっとずつであっても確かにわかってくる、ということがあるのではないかと思います。そのようにして、自分でも気付かない深いところですでに生ける神の力ある働きが、またはそれへの招きがすでに与えられている、大きな働きと招きに私たちはすでにあずかっている。そのことに私たちは今一度思いをいたしつつ、またこの新たな一週間を歩んでいきたいと思います。

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