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2025年8月10日(日)

聖霊降臨節 第10主日


礼拝説教「喜びで満たされる」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 3:11-30


<讃美歌>

(21)26,15,155,479,64,29

 

 聖書の御言葉を聞くときに、前後の箇所とのつながりがあります。そのつながりは、御言葉をふさわしく聞くカギになります。とくに今日の箇所は、直前の3章16節とのつながりがあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された」とは、主イエスの十字架の犠牲による救いのことですが、主イエスが、十字架に命をささげられたことを心にとめながらこの個所が書かれています。そのことはヨハネによる福音書全体を通してのことでしょうが、とくに洗礼者ヨハネが語ったこの個所は、主イエスが命をささげられたことを心にとめずに理解することはできないのです。洗礼者ヨハネ自身も、かつて主イエスが自分の方に来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1:29)と語りかけました。この28節でも自分のことを主イエスの光の下で捉えながら「自分はメシアではない」、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と語っています。

 洗礼者ヨハネが自分のことを語るきっかけは、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人との間で論争が起こったからです。(25)「清めのことで」とあるだけで、どのような議論があったかは不明です。ただ、その議論の中にあった思いはある程度理解することができます。その思いが26節に表れているからです。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」「みんながあの人の方へ行っています」とは、少し誇張されていますが、イエスのところへ人々がこぞって集まっていたのは事実だったでしょう。そのときに、ヨハネの弟子たちもユダヤ人たちも自分たちの人気が無くなり色あせていくようになって、嫉妬したのではないでしょうか。

 しかし問いかけられた洗礼者ヨハネは、嫉妬からは自由にされた恵みの中で語るのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」(27)この言葉は、暗唱聖句にしたらいいと思います。人は、神様から与えられて生きているものです。また、受け取る理由がないものを天から与えられて支えられています。それは恵みと呼ばれるものです。

 ヨハネは自分の役割をよく理解していたはずです。その役割は天から与えられたもので、主イエスが来られたときに、自分の役割が終わることを知っていたでしょう。主イエスが授ける洗礼は、いま教会が受け継いでいますが、それは天から与えられるものです。ヨハネは、自分たちが授けている洗礼は、主イエスの名による洗礼の準備のもの、もっと大きな光に照らされるとその光に吸収される小さな光のようなものだということです。しかし、洗礼者ヨハネは自分が主の働きに用いられることの大きな喜びを抱いていました。ヨハネ福音書を記した教会の者たちも、洗礼者ヨハネが抱いた天からの喜びを抱いて生きていたのです。

 その喜びが、花婿の介添え人の喜びにたとえられています。(29)「花婿の介添え人」と訳されている言葉は、「花婿の友」という言葉です。主イエスの友としての喜びが告白されているのです。「大いに喜ぶ」という言葉も、直訳すると「喜びを喜ぶ」となり、2重に意味が重なっています。それほどの喜びは、主イエスの友とされた喜びです。その喜びのなかで、30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」との告白を聞く必要があります。

 主イエスの友とされた喜びはどのような喜びでしょうか。最初に、「聖書の御言葉を聞くときに、前後の箇所とのつながりがあります」と言いました。主イエスの友とされた喜びは、この福音書の後ろの箇所とつながって響いています。15章15節です。主イエスが十字架を目前に控えた最後の晩餐での説教の中での御言葉です。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているかを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」

 さらには15章13節で主イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語りかけて、私どもへの神の愛を示されました。ですから、主イエスの友となされた喜びは、友のために自分の命を捨ててくださった主イエスの愛を喜ぶ喜びです。

 その喜びのなかで、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」との告白を思い巡らしましょう。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」との御言葉だけ聞くと、そこに喜びの響きを聞き取ることができるでしょうか。「栄える」ことや、「衰える」ことを、自分の知識や経験の中で思いますと、どんどん御言葉からズレていくことがあります。では元々、「栄える」、「衰える」と訳されている言葉はどういう意味があるか。それは、増えるとか、減るという意味です。

 そのことを、喜びの光の中で思い巡らすと、「あの方はますます輝き、その光の中でわたしは隠されていく(吸収されていく)」と捉えることができます。

 先ほど、論争が起こったきっかけは、嫉妬ではないかと言いました。自分が認められ、自分に光が当たることからそれて、光の陰になっていくことを喜べないことがあるかもしれません。しかし、友とさえ呼んでくださる主イエスの輝きに私どもが飲み込まれるようになって、自分の思いに集中することから解かれることは喜びではないでしょうか。それは主イエス・キリストがますます輝き、主の御心が天で行われるように地の上でも行われることを願う喜びです。

 私どもの信仰生活の喜びは天から来ます。それは、私どもの信仰が天からのものによって、神様によって信仰が支えられているということです。ヨハネが告白したように、私どもも喜びと感謝をもって「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と告白して生きていきましょう。

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