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2025年12月7日(日)

【待降節 第2主日


礼拝説教 「恐れることはない」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 6:16-21 


<讃美歌>

(21)26,8,228,456,65-1,29

 主イエスは弟子たちに、「恐れることはない。」(20)と語りかけられました。「恐れることはない」という御言葉を聞くと、いまちょうど祈祷会でイザヤ書を学んでいるので、預言者イザヤを通して主なる神が語られた御言葉を思い起こします。たとえばイザヤ書41章10節には、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」と語りかけられています。その神の言葉と重なることは、決して行き過ぎではないのです。

 ある意味で、主なる神しか語りかけることができない御言葉を、主イエスが弟子たちに語りかけられました。「わたしだ。恐れることはない。」この御言葉を、ヨハネの教会の者たちも、大切に心に刻んで生きていきました。私どもも、「わたしだ。恐れることはない。」との御言葉に導かれることができるのです。

 どのようなときに、主イエスが弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」と言われたでしょうか。それは、そんなことがあるのだろうかと思われるかもしれませんが、ガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちに近づかれ、弟子たちがこわがったので「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけられました。弟子たちが舟で渡っているとき、湖が荒れてどうしようもないなかで、主が水の上を歩いて近づかれ、彼らを助けていかれたのです。それは、主なる神であればそのようになさることができるはずだと信じて受けとめるほかはない出来事です。

 実は、ヨハネはこの出来事の前に、おびただしい人々に食べ物を分け与えられた奇跡を記しています。わずかな五つのパンと二匹の魚を用いてそれをなさった。男が5千人となるので、少なくともその2倍か3倍の人々がそこにいて、食べて満腹したのです。それもまた、主なる神であればなすことができる奇跡として受け止めて信じていく出来事です。

 おそらくヨハネは、主なる神がそこに生きて働かれている、すなわち、主イエス・キリストが、人となられた神であることを信じて二つの奇跡を記したと思われます。そのことは、ヨハネによる福音書1章14節にすでに言い表されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」これは、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストが、わたしたちのひとりとなってお生まれくださったことは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことだというのです。ヨハネは1章1節で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と主イエス・キリストのことを言い表しています。

 ですから、「わたしだ。恐れることはない。」との御言葉は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」主なる神の御言葉であるのです。はっきりとヨハネは主イエス・キリストを主なる神として記していますが、それは1章18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ことが、主イエス・キリストによって実現したということです。

 「父のふところにいる独り子である神」主イエス・キリストが、私どものひとりとなってくださり、弟子たちと共に歩まれて、あるとき、水の上を歩いてさえ近づいて「わたしだ。恐れることはない。」と御言葉をもって導かれたのです。

 主イエス・キリストが嵐のなか弟子たちに近づかれ、舟に迎えられたとき、その「舟は目指す地に着いた」(21)のです。主イエスが弟子たちの舟に乗りこまれたから、「目指す地に着いた」と、そのような受けとめだけで終わってはならない、大切なことをヨハネはここに記しています。どういうことでしょうか。

 それは、パンと魚の奇跡からはじまっていた、ヨハネの思いを読み取ることができるのですが、4節の「過越祭が近づいていた」という言葉です。過越祭は、モーセが人々を率いて奴隷の地エジプトから出発するときに、神の裁きが過ぎ越されて助けられたことを記念する祭りです。その出エジプトの後、モーセが人々を連れて荒野の旅をし、約束の地、目的地を目指したのですが、その荒れ野で食べることができなくなってしまった。そのときに、主なる神が、天からマナと呼ばれた食べ物を与えておびただしい人々を養われました。

そのマナの奇跡と、主イエスのパンと魚の奇跡が重なるのです。その意味では、主イエスは、第二のモーセにして、まことのモーセと言うことができます。実は、モーセは神に裁かれて約束の地に入ることはゆるされなかったのです。どんなことがあったのでしょうか。

モーセは荒れ野での生活の中で、水がなくて人々が渇いたとき、神様は岩に「水を出せ」(民数記20:7)と命じるように言われたのですが、モーセはなぜか岩を杖で2度打って水を出したのです。それを主なる神は「わたしを信じることをせず」(12)と言われて不信仰をとがめられ、約束の地に入ることはゆるされなかった。しかし、まことのモーセである主イエスは罪人ではなく、独り子である神、救い主として真実を示されつくされたのです。

ですから、主イエスを迎えた舟が「目指す地に着いた」ことを、ヨハネは主イエス・キリストを信じて歩む教会が、「目指す地に着いた」ことと重ねて書いているのです。ヨハネは目指す地をどう見ていたのか、それは、この福音書が書かれた目的がそうです。20章31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

私どもは、あらかじめモーセによって示された、まことの導き手、主イエス・キリストを信じて教会という舟にお迎えしているのではないでしょうか。その歩みの中で、いかなるときにも、主イエス・キリストは、助けを与えて導いてくださるのです。それは、水の上を歩かれたように、主なる神でしか、することができない近づき方をなさることもあるでしょう。しかし、いつも「わたしだ。恐れることはない。」と御言葉をもって導いてくださるのです。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とは教会が何のために存在しているか、その根本的な目的をも示しているのではないでしょうか。「イエスは神の子であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受ける」歩みの中で、私ども自身も生かされ、また、私どもの必要をすべてご存知である主が、助けて導いてくださるのです。

「わたしだ。恐れることはない。」と導いてくださる主を、いつも私どもの教会という舟にお迎えしつつ生きていきましょう。それは、ほんとうに私どもを生かす歩みであるのです。毎週、毎週この礼拝に戻っているように、私どもは礼拝を目指して生きているのです。その連続で、やがての日の救いの完成が近づき続けているのではないでしょうか。

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