2025年11月30日(日)
- shirasagichurch
- 27 分前
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【待降節 第1主日】
礼拝説教 「パンと魚の奇跡」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 6:1-15
<讃美歌>
(21)26,17,55,459,65-1,27
与えられています箇所は、とても有名な出来事が記されています。ガリラヤ湖の湖畔での出来事で、いまでもその場所ではないかと伝えられている小高い丘の上に記念の教会があります。そこを旅行で訪れたことがあるのですが、パンと魚の奇跡の教会として大切にされています。きれいなモザイクで、五つのパンと二匹の魚が飾られていました。わずかなパンと魚で、主イエスがおびただしい人々を養われた奇跡ですが、この出来事をヨハネによる福音書だけではなく、4つの福音書すべてが伝えています。主イエス・キリストの十字架と復活の救いを4つの福音書はすべて伝えていますが、いわゆる奇跡で、4つの福音書がすべて書いているのは、この五つのパンと二匹の魚の奇跡だけです。それほどに大切に語り継いできた出来事に私どもも思いを深めていきましょう。
主イエスのまわりに、おびただしい人々がついてきていました。男たちが5千人(10)とありますから、子どもや女性を含めるとその倍以上の人々がいたはずです。集まっている人々に何をお語りになったかは記されていません。おそらく人々がときの経つのを忘れるほどに聞き入っていたあと、主イエスだけが、人々の空腹を心にとめられました。常識的には、そろそろ解散の時間ということになり、弟子たちもそのことを想定していたでしょう。しかし、全く想像もしていなかった問いかけがありました。
5節以下です。「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」
この個所を黙想していて思ったのですが、「イエスは目を上げ」という言葉が心にとまりました。それは、「大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て」という言葉に加えて、わざわざ「目を上げ」とあるからです。「目を上げ」とあるのは、主イエスの祈りの心がその姿に表れているのではないでしょうか。みなさんの中には、「フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいだろうか』と言われたがこう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」とあるのは、いじわるだと思われるかもしれません。しかし、どんなに人ががんばってもどうしようもないことをフィリポに気付かせて、主なる神に願う祈りの心を呼び覚ましておられるように感じるのです。私どもも、自分ではどうしようもないときに、幸いなことに、主に祈ることへと導かれたことがあるのではないでしょうか。実際、こうして礼拝に集うこと自体が、祈りの行為になっているのです。目を上げて、主に思いを傾けていることは、祈っているのです。
7節でフィリポが、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えています。二百デナリオン分のパンとはどれほどでしょうか。1デナリオンは、一日分の賃金ですから、数えやすいように1日1万円とすると、200万円分です。とてつもない額で、そのお金があっても、実際に買い求めるパンがそれほど多く一度に手に入るわけでは無いので、とても無理ですよ、と言っているのと同じです。私どもだったら、主イエスにどう応答するでしょうか。
ひとりの弟子が、主イエスに応えています。ペトロの兄弟アンデレです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たたないでしょう。」(9) 「こんなに大勢の人では、何の役にも立たたないでしょう」という思いを抱きながらですが、主イエスに「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」と伝えたのです。
小さな祈りの心を見いだすことができるではないでしょうか。「少年」とありますが、ある有名な神学者は、この少年は、当時の少年奴隷だったではないかと言います。主人につきそい、その荷物をもってこの少年も主イエスのところに来ていた。聞いているうちに、このお方について行きたい思いが与えられたかもしれない。しかし、主人に仕える奴隷の身分の少年にはそれはできません。昔から美しい想像があるのですが、この少年が主イエスに食べてほしいと、自分のお弁当を差し出したというのです。「大麦のパン」という言葉に気付かれた方もあると思いますが、「小麦のパン」に比べて、「大麦のパン」は庶民、貧しい人日の主食だったようです。
いずれにしても、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たたないでしょう」というところから主イエスは始められました。11節「イエスはパンをとり、感謝の祈りを唱えてから、人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しい分だけ分け与えられた。」
どんな風に奇跡が起こったか、説明することはできないのです。人々が食べて満腹した、そのことをヨハネは記しました。おそらくヨハネは、預言者エリシャの出来事を思い起こしたはずです。ある人がエリシャのもとに、大麦のパン20個とほかに少しのものを持ってきたのですが、それを人々に食べさせるように召し使いに命じます。召し使いは「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」(列王記下4:43)と答えるのですが、エリシャは「彼らは食べきれずに残す」と言い、そのとおりになったのです。主イエスは、預言者エリシャよりもはるかにまさったお方、主なる神であり、救い主であることを、ヨハネによる福音書は感謝をもって記しているのです。
私どもも、感謝をもって主に仕えていきたい。こんなわずかなものではどうしようもない、と思えるときにも、目を上げて、主に祈りをささげていきたい。私ども自身が、わずかな人数の群れですが、主は用いてくださることを信じていきましょう。主は私どもを愛して用いてくださるのです。そのことがこの個所にもあらわされています。
エリシャは「彼らは食べきれずに残す」と言い、そのとおりになったのですが、主イエスから命じられて集めたパンの残りは、「十二の籠がいっぱいになった」(13)とあります。おそらくみなさんの中にも、12弟子ひとりにひとつずつだと思われる方もあるでしょう。有名な神学者も同様のことを考えているようです。自分が食べることもあとにしてひたすら配った弟子たちには、ひと籠ずつのおみやげが与えられたのです。おもがけない恵みを主からいただくことがあります。最初から期待していないので、思いがけない恵みですね。
私どもも、待降節のとき、クリスマスの祝いのとき、私どもを愛して用いてくださる主に、目を天に上げて、心から仕えていきましょう。当時の、食べて満腹した人々は、残念なことにイエスを王にするため連れて行こうとして(15)、主イエスはそこから退かれました。王にするというのは、ローマの国から解放してくれる、軍隊を率いる王のことです。私どもは、ヨハネによる福音書の教会と共に、主イエスを救い主と信じて従っていく、感謝の道に生きることができるのです。どうか、いかなるときにも、感謝の祈りをささげることを忘れないようにしましょう。感謝の祈りをささげるときに、主イエスもまたそこにいてくださるのです。





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