2025年12月14日(日)
- shirasagichurch
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【待降節 第3主日】
礼拝説教 「神のパン」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 6:22-40
<讃美歌>
(21)26,51,175,233,65-1,29
与えられています箇所で、心にまずとまった言葉があります。29節で主イエスが語りかけておられます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業(わざ)である。」「神がお遣わしになった者」とは、主イエス御自身のことです。主イエスを神がお遣わしになった救い主と信じて喜び祝うのは、クリスマスの喜びです。クリスマスに備え、また心から祝うことは、神の業にあずかっているということを心に刻んで感謝していきましょう。
主イエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業(わざ)である。」と語りかけられたとき、群衆と主イエスとの間に、大きなズレがありました。そのことがよくわかるのは、26節の言葉です。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜したのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
群衆が熱心にイエスを探していて、やっと探しあてたときに責めるように「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」(25)と問いかけたときに、お答えになりました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜したのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」彼らは、主イエスによって大切な「しるし」を見るには見たのですが、悟ることができずに、食べて満腹したことが大きな動機となって探し回っていたことを、主イエスは見抜いておられたのです。
彼らがいかに食べることに苦労していたか、主イエスはすべてご存知でしたし、彼らに日ごとの糧が必要なことを誰よりもよく知っておられました。しかし、日ごとに食べて満腹することだけに終らない、「天からのまことのパン」(32)に生きるようにと願っておられたのです。
しるしを見たけれども、しるしとして理解しなかったのは、荒れ野でマンナを食べた、荒れ野の旅をした、出エジプトの民もそうでした。天からの食べ物である、マンナを与えられたのですが、そのことが食べて満腹することにとどまってしまった。そのことは、パンと魚の奇跡によって満腹した群衆と重なるのです。食べて満腹することにとどまっていた人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」(34)と願ったとき、主イエスは言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇(かわ)くことがない。」(35)
ここには、主イエスの切なる願いが込められています。あるいは心からの命がけの招きがあるのです。わたしのもとに来るように、わたしを天から遣わされた救い主として信じて、わたしによって食べ、飲むようにと招いていられるのです。それは、「永遠の命に至る食べ物」(27)のことです。救いを与える食べ物、神のパン(33)であるのです。
私どもは、からだを支えるための日ごとの食べ物を食べるときに、その食べ物の命をいただいているという感覚はあるでしょうか。食料品店、スーパーマーケットで買うことに慣れていると、命をいただいている感覚がうすれているように思います。なおさら、主イエスが「神のパン」のことを話されて、「わたしが命のパンである」と言われたときに、私どもは、主イエス・キリストの命をいただいて、その「神のパン」「命のパン」を食べている自覚があるでしょうか。
実際、主イエス・キリストが「わたしが命のパンである」と言われた御言葉を、ヨハネが記したときに、主イエスが十字架に命をささげて、私どもへの神の裁きを過ぎ越すようにしてくださったことを深く感謝していたのです。
みなさんの中には、聖餐のときのパンとぶどうの杯を思い起こされる方もあるでしょう。確かに、主イエス・キリストが私どものために、命をささげられたことをおぼえ、感謝をもって受け取る、神のパン、命のパンは、聖餐のときに分け与えられる、恵みのパンと杯を思い起こします。
聖餐という言葉は、もともとは感謝(エウカリスティア)という言葉がもとになっています。
主の命をいただいている感謝を忘れないように祈っていきましょう。それは、「神の業」にあずかることでもあるのです。私どもは、自分で信じて従っているようでも、神の業にあずかって、信仰を与えられ、主イエスが救い主だと信じて生きてきたのです。その恵みがなければ、教会は今日の日を迎えることは決してできなかったでしょう。
感謝、と訳される旧約聖書のヘブライ語の一つは、「ヤダ―」です。通常、感謝すると訳されますが、告白する、ざんげする、賛美するという意味もあります。ですから、主なる神に向かって私どもが思いを深めていく、その思いの中身は、感謝であり、ざんげであり、賛美である、そのような信仰の思いを主に告白しながら生きていくことは、神の業にあずかっていることであるのです。
また、神のパン、命のパンを食べる、というとき思い起こすのは、有名なエレミヤ書の御言葉です。15章16節に「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。」とあり、続けて「あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。」
この喜び、恵みの御業にあずからせようと、主イエスが語りかけておられるのです。主の御言葉を食べて生きることは、この礼拝の恵みであります。魂の糧をいだいて、私どもは礼拝のたびごとに生かされ、ここから遣わされているのではないでしょうか。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇(かわ)くことがない。」との御言葉を、感謝をもっていただいていきましょう。主の御言葉を礼拝で食するときに、主の尊い命をいただいていることを忘れずに生きていきましょう。





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