2025年7月6日(日)
- shirasagichurch
- 7 日前
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【聖霊降臨節 第5主日】
礼拝説教「神の家である教会」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 2:13ー22
<讃美歌>
(21)25,20,475,396,65-2,29
主イエスは、エルサレムの神殿でそこにいた商人たちを追い出されました。強い熱意をもってそうなさったのですが、古くから「宮きよめ」と呼ばれてきました。しかし、神殿である宮を清めるためだとすれば、なぜそこまでなさる必要があったか、すべてを理解できない箇所です。15節以下に「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」とあります。主イエスが、このような激しい行動に出られたのは、この箇所だけです。それだけにどうしてもそうなさる必要があったのでしょうが、主イエスが語りかけられ、神殿でなさったことをどう受けとめたらいいのでしょうか。
祈りの家である神殿が、商売の家になっていたのは当時の実際のことだったでしょう。そのことに憤りを主イエスがおぼえられたのです。神殿でささげられる犠牲を、家から持ってくることができない遠方から来る人々のために、お金で犠牲の動物を購入できるように商人たちがいたのです。あるいは、通常用いている、たとえばローマの貨幣をユダヤ人のお金に両替して献金していたので、両替の商人もいました。当時の習慣としては必要な商人でしたが、そのような営みの中で、神への礼拝の心が失われていて、神殿の中身が空しくなっていることを、だれよりも見抜いた主イエスが、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われて、行動を起こされました。確認できるのは、だれも怪我を負ってはいないということです。しかし、神殿での礼拝の心を取り戻させるためであるなら、別の方法はなかったのでしょうか。
主イエスが神殿で語りかけられた「わたしの父の家を商売の家としてはならない」という御言葉を思い巡らせましょう。「商売の家」とは、そこでなされることの中心、目的が商売だということです。それは言い換えるなら、集う人々の利益のための場所ということです。私どもは、もちろん、教会で商売をしているわけではありません。しかし、主イエスがここで戒められていることが、自分の利益のために集うことが中心になっていることであるなら、私どもは自分の利益のために集っているのではないとはっきり言えるでしょうか。私自身、時々、信仰生活が利己的になっていないか問われることがあります。
もちろん、礼拝からはじまる信仰生活のなかで、神に祈り、こうしてほしいと願いを申し上げて助けていただくことは大切なことです。主イエスは1章38節にあるように、従ってくる者に「何を求めているのか」とたずねてその願いを聞いてくださるのです。しかし、私どもの弱さ、罪深さゆえに、自分の求めに応えてくださる神を信じることだけに生きて、神様の御心をたずね求め、そのお働きに献身して従うことが失われることがあるのです。その意味で、私自身、時々、信仰生活が利己的になっていないか問われることがあります。
そのような、信仰生活が利己的になることを主イエスが深く見抜いておられたとするなら、神の愛をもって強い行動に出られて、私どもにしるしを残してくださったのではないでしょうか。「しるし」という言葉を用いましたが、主イエスは、神殿を訪れるたびごとにこの個所のようなことをなさったのではないのです。おそらく一度きりの「しるし」だったでしょう。ある神学者は、ゼカリヤ書の預言の言葉を思い起こしています。ゼカリヤ書の最後の14章で、「見よ、主の日が来る。」と終末の到来を語りかけています。それは、神の救いが完成へと向かう終末の到来ですから、その終末は救い主の到来によってはじまります。そしてゼカリヤ書は、その書の最後で「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(14:21)と結んでいます。まさに、ゼカリヤ書の預言が、主イエス・キリストの到来によって成就しているのです。あるいは、主イエス・キリストが、ゼカリヤ書の預言を成就するために来られた救い主としてここに立っておられるのです。
主イエス・キリストは「わたしの父の家」と言われました。それは父である神の家のことで、ヨハネはキリスト教会が神の家として生きるための御言葉としてここに記しています。私ども教会が神の家として生きるために、主イエスは語りかけられています。19節「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」聞いていた人々は、建物の神殿を思い浮かべたようですが、主イエスは御自身の体ことを言われました。原語で読むと、「この神殿を壊してみよ」と言われた「神殿」は、14節の「神殿の境内で」とは違う言葉で、「聖所」とも訳すことができます。人となられた神である救い主は、まさに聖なるお方ですから「聖所」と呼ぶにふさわしいのです。「この聖所を壊しなさい」とは、十字架の犠牲の死に至る言葉です。そして、「三日で建て直してみせる」という言葉は、直訳すると、「三日で起き上がる」です。原語の「エイゲイロウ」は「建て直す」という意味と「起き上がる」という意味があります。主イエス・キリストが死から起き上がられた、すなわち復活されたときには「起き上がられた」という意味の「エイゲイロウ」が使われているのです。ですから、「三日で起き上がる」とは「三日で復活する」と言われたのです。
弟子たちは、主イエス・キリストがご自身の体のことを言われたことに気付いたのは、主の復活のあとのことでした。さらには、聖霊によって御言葉の意味を教えていただいてはじめてわかったのです。21節22節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
「イエスの語られた言葉」とは、ご自身が「神殿」であるということでしょう。あるいは、三日で起き上がる、復活なさることでしょう。さらには、この福音書全体を受けている言葉と理解することができます。聖所そのものである主イエス・キリストを信じて従う者たちが、神の家である教会を形成していくことを、ヨハネは喜びをもって信じて書き記したのです。
主イエスの語られた言葉は、その中心にある掟としての御言葉をたえずヨハネの教会は思い起こしたでしょう。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15:12)主イエスが私どもを愛してくださった愛に生きるときに、私どもは利己的になることから自由にされていくのです。主よ、あなたの愛の掟に聞き従いますから、弱く罪深いものを助けてください、と祈っていきましょう。主イエスが私どもを愛してくださった愛は、無償の愛であり、私どもを生かし、すべてを赦して受け入れていく神の愛です。その神の愛が教会を生かし、動かしていることを信じて、主に従っていきましょう。

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