2025年7月27日(日)
- shirasagichurch
- 11 時間前
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【聖霊降臨節 第8主日】
礼拝説教「新しく生まれる」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 3:1-15
<讃美歌>
(21)25,16,51,303,65-2,29
与えられています箇所は、有名な主イエスとニコデモという人との対話です。ニコデモは、このときの主イエスとの対話によって弟子となったとは書かれていません。しかしニコデモという名前が記されているのは、のちに主イエスを信じて弟子となったと考えられています。ニコデモが「議員であった(1)」とあるのは、サンヘドリンというユダヤ最高議会の一員であったことを意味します。ユダヤ社会の指導者の一人です。主イエスとの出会いに思いを深めていきましょう。
2節に「ある夜、イエスのもとに来て言った」とあります。なぜ夜だったのでしょうか。議員であるニコデモが、ファリサイ派の指導者であるので、人目を避けるようにしてたずねたのでしょうか。夜にひっそりとたずねたと考えられます。しかし、もう一方で、積極的な意味でとらえることができます。それは、夜は御言葉に向き合って教えを受けるときだということです。昼間は働いているので、夜に、ニコデモは主イエスに教えを受けようと心から願ってたずねたのです。
ニコデモは主イエスに心からの挨拶の言葉を言っています。(2)「ラビ」というのは、先生という意味ですが、教えをくださるお方としての尊敬の思いを表しているのです。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさっておられるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」とは、心からの言葉です。しかし、この挨拶には主イエスに対する問いかけはないように思えるのですが、3節には、「イエスは答えて言われた」とあります。どう理解したらいいのでしょか。
すぐ前の箇所には「イエスは、何が人間の心にあるかをよく知っておられたのである。」(2:25)とあり、ニコデモの言葉にならない、深い心の問いかけをよく知っておられたのではないでしょうか。しかし24節には信じた人々に対して「イエス御自身は彼らを信用されなかった」とあり、信用されなかった人々の代表のようにニコデモとの対話が続くのです。ただ、私どもは、信用できない人に対して、主イエスのように丁寧に接することはできないのではと思います。
主イエスはニコデモに答えて言われました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3)「神の国」について書いてあるのは、ヨハネによる福音書でこの3節と5節だけです。5節では、新しく生まれることについて、「だれでも水と霊によって生まれなければ」とあり、これは洗礼のことだと理解してきました。水で授けられる洗礼のときに、神様が上より聖霊を与えてくださるからです。(使徒2:38)上より聖霊を与えてくださる、と言いましたが、「新たに生まれる」の「新たに」という言葉は、元々は「上より」という言葉です。ですから、「新たに生まれる」ことは、赤ちゃんになってもう一度生まれることではなくて、「上より」神様によって新しくされることです。それが、主イエスが約束されたように、洗礼によって実現していると教会は信じてきました。そのときに、神の国を見ることができるのです。
神の国とは、神の支配のことですが、主なる神が恵みによって支配されていることを、ニコデモは見ることができないで、悩んでいたのではないでしょうか。社会的にもローマ帝国の支配のもとにあり、自分自身の生活の中にも、指導者でありながら、神の支配をはっきりと見ることができていなかったのかもしれません。しかし、ヨハネはそれを自分たちのこととしても記しています。もう一度、主イエスの御言葉の約束にしっかりと立って行こうとしたということです。
「はっきり言っておく」(3、5)と主イエスは2度も重ねて言われました。この「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、聖書の原語では「アーメン、アーメン」という言葉です。アーメンは、ほんとうにという意味です。それを「アーメン、アーメン」と強調されて、この言葉はほんとうにその通りになると言われたのです。ですから、主イエスは、わたしの語る言葉はその通りになる、すなわち、人は神によって上から生まれるとき、主によって新しくされるとき、神の国を見ると約束して言われたのです。
先ほど、ヨハネはニコデモのことを自分たちのこととして記したといいました。自分たちは理解しているけれども、理解の悪い指導者として書いたのではないのです。あるいは、自分たちは主に信用されているけれども、ニコデモそうではなかったと一段上から見下ろしているのでもないのです。自分たちもまた、神の国、神の支配を見たいと心から願っていた、もう一度、主イエスの約束の御言葉に立っていきたいと願っていたのです。私どもはどうでしょうか。
主よ、どうしてですか、と祈ることがありますが、それは神の恵みの支配に対して心がゆらいでいるのではないでしょうか。ニコデモは、ファリサイ派でしたから、この世と妥協することなく神の律法、教えに聞き従おうとしていました。その歩みの中で、悪と手を結ぶような者たちが力を持っていく姿に心がさわぐことがあったでしょう。ヨハネたちも、迫害に次ぐ迫害の中で、信仰の道を離れていく者たちを実際に見たことでしょう。自分たちではどうしようもないことがあったのです。そのようなときに、神の国に入る、神の国を見るのだと言われた主イエスの約束の御言葉に再び立って行ったのです。
そのときに、主イエスの御言葉を思い起こしました。8節「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もそのとおりである。」「風は思いのままに吹く」と訳されている「風」はプネウマという言葉で、息とも霊とも訳すことができます。神様が命の息である聖霊を上から与えて生かしてくださるのです。「霊から生まれた者も皆その通り」とある「霊」も「風」と訳されている言葉と同じですから、このように訳すこともできます。「霊は(神の)思いのままに働く。あなたはその音(声)を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」ヨハネたちはわかっと思います。
神の恵みの支配を、自分たちは究めることができない。しかし、確かに霊の働かれる声を聞いているではないか。御言葉を聞いているではないか。彼らは、いかなるときにも、御言葉を聞く礼拝をやめることはありませんでした。それは、主の霊が御言葉と共に働かれて、彼らを導き、慰めてくださる、まさに恵みの支配を見るとき、主の御言葉の風、プネウマをその身に感じるときだからです。
私はいつも思うのですが、先日も教会員の家族が逝去された思いがけない悲しみのときに、葬儀を執り行いました。しかし、葬儀は必ず主を礼拝するときとして持たれます。礼拝どころではないと思われるような、そのもっとも深い悲しみのときに、そこでこそ主が慰めの風を深い心の奥底に吹かせて働いてくださるのです。ヨハネたちも殉教者を天に送る葬儀のときに、また主日の礼拝のたびごとに、主の恵みの支配を見て言ったのです。私どもも、その恵みのあしあとにならっていきましょう。

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