2025年7月20日(日)
- shirasagichurch
- 15 時間前
- 読了時間: 5分
【聖霊降臨節 第7主日】
礼拝説教「神の福音を伝えるために」
柳田 洋夫 牧師(聖学院大学チャプレン・教授)
<聖書>
テサロニケの信徒への手紙一 2:1ー12
<讃美歌>
(21)25,4,55,157,65-2,29
パウロはまず、「わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」と喜びを語ります。テサロニケの教会が、しっかりと信仰のうちに生かされ、歩んでいたからです。パウロ自身はほとんど何もできなかったにもかかわらず、福音の種が芽吹き、根付き、成長を続けている、そこにパウロは、神ご自身がなされるみ業の奇跡を見たのではないかと思います。
もうひとつの無駄ではなかった、ということの中味は、パウロ自身に関わることです。2節にはこうあります。「無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」。
フィリピという地でいったい何があったのかということは、使徒言行録第16章に記されています。しかし、フィリピで苦しめられたにもかかわらず、「わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語った」とパウロは言います。意気消沈するどころか、逆にさらなる激しい苦闘をもいとわずに、テサロニケにおいて福音を宣べ伝えることができたというのです。そのことによって、パウロ自身、苦難の中においてこそ、神さまは勇気を与えてくださるということを改めて知るという大きな恵みを味わったのでした。ちなみに、新改訳聖書では、「大胆に神の福音をあなたがたに語りました」と訳されていますが、まさに「大胆に」という言葉があてはまるところでしょう。
しかし、一方では、パウロたちの伝道は、さまざまな批判や疑惑にさらされていたようです。それは、パウロの弁明の言葉からもわかります。パウロは旅をしながら伝道したわけですが、同じように、さまざまなところを渡り歩いて何かを教えて生活していた人々がいました。しかし、その中にはいかがわしい者も少なからずいたようです。たとえば、「ソフィスト」と呼ばれる、哲学や弁論術を教えて回る教師たちがおりましたが、先生とは名ばかりで、ただ高い報酬だけを目当てにしているインチキ教師もたくさんいたようです。
ところで、宗教改革者ルターは、わたしたちは神の前で「罪人であると同時に義人」である、と言いましたルターはまた、わたしたちは「回復の途上にある病人」であるとも言います。キリストの血によって罪赦されたわたしたちは、実際の人生においても、それまでの生き方、つまり罪にとらわれ続ける生き方をやめて、神の愛に生きる新しい生き方へと一歩を踏み出すことができるのです。その一歩は決定的に大きな一歩です。パウロもしばしば、キリストにつながる前の「古い人」と、キリストに連なる「新しい人」という言い方をしていますが、それほどまでに、キリストを通してわたしたちが義とされるということは、大きな人生の転換なのです。
神の恵み、神の愛にうながされて働くパウロの姿は、8節にもよく示されています。ここには、神の愛が注がれて、その愛が人々へと溢れ出るまでになり、自らの命をもかえりみず神の福音を伝えようとしているパウロの姿があります。しばしば使われる言い回しに、「血の通った・・・何とか」という表現がありますが、パウロがなしたのは、まさに血の通った福音伝道でありました。福音に自らのいのちが添えられていると言えるまでに血の通った伝道でありました。しかし、それは、決してパウロ自身の資質によるものではなく、神の愛が、パウロをそれほどまでに引き上げてくださったゆえになしえたものでしょう。また、そうであるからこそ、その言葉は、二千年の時を超えて、今ここの私たちをも突き動かすものとされていると言えるのだと思います。
テサロニケの教会には、信仰ゆえに、それぞれの家族から離れて、教会という新しい家族のありかたへと踏み出していった人々もいたと思います。そうであるとき、パウロが、自らをさまざまな家族の構成員になぞらえたことに、その新しい家族の福音に慰めと希望を感じた人々も多かったのではないかと思います。パウロだけではない、教会に連なる者はみな、互いが互いにとって父となり母となり、子となり、兄弟姉妹となる。少なくとも、誰かが誰かを一方的に支配するのではなく、今日の御言葉の最後の12節に即して言うならば、互いに「神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め」合い、共に神の国と神の栄光を仰ぎ見る、そのような意味での新しい家族、新しい絆です。
もちろん、一方では、だからといって、この世における家族をないがしろにしていいということは決してありません。テモテへの手紙一の第5章8節には、「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」とあります。しかし、この世の家族のありかたをも超え包み、新たにする絆が教会にはあります。ですから、この世の家族というものも、教会における結び付きからとらえ直す必要があると思います。あえて言うならば、教会が家族を目指すのではなく、家族が教会を目指すのです。そして、神の愛の中で、上よりの恵みを共に仰ぎ見る中で、家族の者同士も新しく出会い直すのです。また、血の繋がった家族がなくとも、キリストによって結び合わされた、キリストの体としての新しい家族としての教会の絆が与えられる。そのようなことがほんとうに起こるところが教会であるし、またそのことをこの世に証しすることが、神の国の福音を宣べ伝えるためにまた大切なことだと思うのです。
あの東日本大震災以来、絆ということが繰り返し問い直されています。教会というこの新しい絆に招かれている私たちは、本日与えられた御言葉に示されたパウロの姿に倣いつつ、神の福音を、そして福音に生かされることの恵みを、神の民としての共なる歩みにおいて日々証ししていきたいと思います。

Comments