2025年7月13日(日)
- shirasagichurch
- 7月14日
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【聖霊降臨節 第6主日】
礼拝説教「主は人の心を知ってくださる」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 2:23ー25
<讃美歌>
(21)25,8,430,402,65-2,29
聖書の言葉を聞くときに、立ちどまるように思いを巡らす言葉があります。「そのなさったしるしを見て、多くの人々がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」(23・24)とあります。イエスの名を信じたけれども、その信じた人々を主イエスが信用されなかった、というのです。ヨハネはその理由について「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである。」(25)と記しています。
この福音書を記したヨハネは、主イエスが信用されなかった人々について書いたときに、あの人々は「しるし」を見て信じた、信仰が不十分な人々で、自分たちはそうではないと思っていたのでしょうか。決してそうではなかったはずです。
ヨハネによる福音書は、過越祭のときの「しるし」について、ここまで書いているのはわずかです。すぐ前の箇所で、主イエスが神殿で商売をしている人々に向かって「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(16)と語りかけられました。「羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた」(15・16)とありますが、それを祈りの家としての教会の姿をはっきりと主イエスが示された「しるし」と見た者たちは少なかったと思います。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18)と問い詰める人々に対して主イエスは、19節で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19)と語りかけられました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とは、聞いた人々が受け取った意味で訳されています。しかし、主イエスは御自身の体のことを「神殿」と呼ばれたのです。また、「建て直す」と訳されている言葉(エゲイロー)は、「起こす」「起き上がる」という意味でもあり、「復活する」と訳される言葉です。ですから、主イエスが語りかけられた意味で訳すと、「この聖所(体)を壊しなさい。三日で(死から)起き上がる(復活する)」となります。十字架の死と復活のことを主イエス・キリストは語りかけられたのです。やがて弟子たちも、ヨハネの教会の者たちも、主の十字架と復活の救いを信じて生きるようになりました。しかし、この個所ではまだそのときは来ていません。
23節を改めて読み返しますと、「そのなさったしるしを見て」とあります。そのしるしに、神殿を祈りの家として導き、商売の家としてはならないことを行動を伴って示されたことが含まれるでしょう。しかし、主イエスは「しるし」を求める人々に、信じることを助けるしるしとして、病気をいやされたりしたことは実際にあったことでしょう。そのことをヨハネはここに書いて、憐れみ深い主なる神である主イエス・キリストを深く信頼してたたえているのです。愛である神がここに示されているのです。
ヨハネが主イエスを深く信頼して記している一方で、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」とあるのは、当時の過越祭に集まっていた人々だけではなく、自分たちもまた、主なる神の信用に値するものを持ち合わせていないことを告白しているのではないでしょうか。「商売の家」となっていることを、ヨハネは、自分たちの利益のために集うことに終始してしまう、自分たちの罪深さを示されながら、神の御心をたずね求める祈りへと導かれていったはずです。
私どもは相手が自分にとって何も良いものを与えないことがわかっていて、なおも働きかけることができるでしょうか。しかし、主イエスは「何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」にもかかわらず、救いを与えようと働きかけることを続けられたのです。しるしを求めて、そのしるしによって信じることもおゆるしになりました。ただそこには、繰り返しになりますが、自分にとって好ましいしるしを求め続けていく危うさが伴うのです。自分にとって好ましくいないと思われると、その信仰を捨てていくことになるかもしれない危うさがあります。
ある方のことを思い起こします。私事ですが、小学1年生のころですが、家族みんなで姫路駅近くの教会の礼拝に通っていました。礼拝のあと、教会の集会室でみなさんと昼食をとっていましたのですが、Kさんがこんなことを話されていました。自分は目が見えないけれども、聖書には目の見えない人が見えるようになったことが書いてある、神様は自分の目を見えるようにすることができると信じているけれども、いま目が見えないのは、何か神様のご計画があるからだと思っている。Kさんは、しるしによって信じることから自由にされて、心から主をたたえて信じていたのだと思い返します。
先ほど、しるしを求める信仰は、ときに利己的になって、自分の好ましくないことに出会うと、信仰を捨ててしまいかねないと言いました。「何が人の心の中にあるかをよく知っておられた」という聖句を聞くと、エレミヤ書の言葉を思い起こします。17章9節以下に「人の心は何にもまして、とらえ難く(がたく)病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究める(きわめる)のは 主なるわたしである。」主なる神の御言葉を聞いたエレミヤは深く照らされ、自分もまた主にその心をいやしていただく必要があることを知って告白しています。17章14節「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」
預言者のエレミヤは、彼自身もまた主なる神のいやしを必要とし、神の救いがなくては生きられない者として語り続けました。ヨハネもまたそうだったのです。私どもも、主なる神のいやしを必要とし、神の救いがなくては生きられない者として語り続けていきましょう。主を信じてたたえる礼拝は、人は神のいやしを必要とし、神の救いがなくては生きられない者であることを世に語り続けていくことです。
「イエス御自身は彼らを信用されなかった」とは、私どもを突き放す言葉ではありません。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」とは、直訳すると「御自身を彼らにまかせなかった」という意味です。信仰生活の確かさは、いつも主なる神にあるのです。教会の確かさ、将来は、主なる神にまかせて、安心して生きることができるのです。何が人の心にあるか、すべてをご存じの上で、主なる神が神の愛によって深く私どもを導いてくださることを信じていきましょう。
エレミヤに「心を探り、そのはらわたを究める(きわめる)のは 主なるわたしである」と語りかけられた主が、今も私どもの傍らにいて導いてくださるのです。すべてを知った上で、赦しを与え、いやし、救いの恵みに生かしてくださるのです。主なる神は、心から信用できるお方です。主は、すべてをまかせることができる愛の主であることを信じていきましょう。

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