2025年6月8日(日)ペンテコステ礼拝
- shirasagichurch
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【聖霊降臨節 第1主日】
礼拝説教「神の約束とは」
願念 望 牧師
<聖書>
使徒言行録 2:37ー42
<讃美歌>
(21)26,7,342,346,65-2,29
今日は、ペンテコステ礼拝を共に献げています。ペンテコステはキリスト教会の誕生日と言われます。私どもも誕生日がありますが、自分で生まれて来たのではなくて、主なる神から命を授けられて存在していますように、教会も、生み出してくださったのは神様です。主が教会を生み出し、また支えてくださっていることに思いを深めていきましょう。
ペンテコステは、2章の1節にあるように「五旬祭(ごじゅんさい)」と訳されますが、直訳すると「第50」という意味です。元々「五旬祭」は当時の収穫感謝祭として、またモーセの十戒が与えられた日として持たれていたようですが、主イエスの復活から50日目に聖霊がくだったことを記念して、キリスト教会はペンテコステを祝うようになったのです。
聖霊は、単なる力ではありません。目に見えない主なる神の霊、あるいは主ご自身と言ってもいいのです。聖霊は、聖書では神の霊(Ⅰペトロ4:14、フィリピ3:3)、イエス・キリストの霊(フィリピ2:19)とも呼ばれますが、主なる神が目には見えないけれども共にいてくださるのです。霊という言葉は、旧約聖書のヘブライ語を背景に持ちますが、風とか息という意味合いです。風は見えませんが、風が吹いていると木々が揺れたりしてわかりますし、風を感じることもできます。
主なる神が、風とも言うべき聖霊によって、教会を動かしてくださっていることは、私どもが礼拝をささげていることに現れています。礼拝を御言葉と共に働いて導いてくださっているのは、聖霊なる神であるからです。また、聖霊が息であるということは、いのちの息ですが、教会にいのちの息が吹き入れられて誕生して生きるようになったのです。祈りが呼吸にたとえられることがありますが、礼拝は祈りのときでもあります。私どもが祈りをささげているその祈りの息に、私どもが気づかないところで、息である主の聖霊の働きがあってこそ、祈りは祈りとなっていくのです。
そのような、主なる神が私どもと共に生きて働きかけてくださる恵みが、ペンテコステの出来事を通して始まったのです。ペンテコステの出来事は、聖霊降臨の出来事で、最初は何が起こったのか、周りの人々にはよく分からなかったようです。しかしペトロが他の弟子たちと共に立って、聖書の言葉によって説き明かし、説教をしたのが今日の箇所です。
聖書の言葉によって説教したのは、どうしてもそれが必要だったからで、神の出来事がそこに起こっていても、それが聖書の言葉によって示されないと、人は理解して受けとめることができないからです。
ペトロは、17節で、聖霊降臨の出来事が、聖書の預言の成就だと語りかけました。それは旧約聖書のヨエル書3章1節の引用です。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」
旧約の時代には、神の霊は特別な人に注がれ、たとえば預言者が神の言葉を伝えました。しかし、主イエス・キリストか来てくださった新約の時代には、聖霊が信じるすべての人に注がれることになったのです。それは、主はすべての人を救いに導こうとなさっているからで、分け隔てなく共に生きてくださることのあらわれでもあります。ペトロは「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(21)と力強く語りかけました。
ペトロはその説教の中で、主なる神が人々を罪から救い出して、神と共に生きるように導いておられることを語るのです。十字架におかかりになった主イエスが、私どもの救い主メシアだと語りかけます。ペトロを通して、御言葉に伴う聖霊の働きによって心を打たれた人々は問いかけます。「わたしたちはどうしたらよいのですか。」(37)
ペトロは語ります。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38)
悔い改めるというのは、神の方へと向き直ることを意味します。救いを与えようと私どもの方をすでに向いてくださっている主を信じて向き直るのが、悔い改めるということです。悪いことをやめるという意味で悔い改めを理解することもありますが、聖書では、むしろ、神へと向き直るからこそ、主が働きかけてくださって悪しき思いや行いから離れていくことができるということです。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」この約束の御言葉はとても重要で、洗礼を授けられたときに、神からの賜物として聖霊を受けるということです。それは、約束の出来事であって、信仰をもって受けとめることで、感覚で確かめるものではありません。私どもの側に、聖霊を与えられ、罪を赦していただく理由は何もないのですが、ただ、神の賜物としていただくのです。主イエスの救いとはそのようなものです。
ペトロたちは、「わたしたちは皆、そのことの証人です。」(32)と語りました。その言葉はとても深く重い告白です。「証人」という言葉は、主イエスが復活してくださって救い主としてお働きくださっていることの証人という意味です。
しかし、初代教会で、やがて迫害が激しくなり、主が救い主であることの証人として生きることは、迫害のゆえに殉教の死をささげることが起こっていきました。そして、「証人」として主イエスを証言する、「証言」マルテュリオンという言葉が、「殉教」の意味でも用いられるようになったのです。
ペトロは、かつて主イエス・キリストを知らないと、三度も否定してしまった弟子です。しかし、彼にも赦しの道が与えられ、弟子としてもう一度仕えるようになったペトロは、神の働きによって主の弟子、主の証人となり続けていきました。伝えられているところでは、ペトロも殉教者の一人となったのです。しかし、ペトロたちの体の命は奪うことができても、彼らの信仰をだれも奪うことはでききませんでした。彼らが伝えた主の救いをだれも奪うことができず、また主の救いの道を終わりにすることは誰もできないのです。
私どもも、ペトロたちの足跡にならって、主の救いの証人としての喜びに生きていきましょう。聖霊の働きは、最初の教会がそうであったように、礼拝を始まりとする教会生活のすべてにいたっているのです。主は私どもの礼拝を支え、赦しを与えて喜びと感謝に生かしてくださいます。その喜びと感謝は私どもの間だけにとどまることはない、この礼拝から世に伝わっているのです。主が働いておられ、すべての人に神の救いをもたらそうとしておられることを信じて、これからも礼拝を始まりとして祈り励んでまいりましょう。

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