2025年6月29日(日)
- shirasagichurch
- 3 日前
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【聖霊降臨節 第4主日】
礼拝説教「カナでの奇跡」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 2:1ー12
<讃美歌>
(21)26,17,210,286,65-2,29
主イエス・キリストは、カナで最初のしるしを行って、栄光を現わされました。水がめを満たした水がぶどう酒にかわった、有名なカナでの奇跡です。11節には「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。」とあります。そのとき現わされた主の栄光は、今もなお教会に現わされています。主の栄光に思いを深めていきましょう。
ガリラヤのカナは、主イエスがお育ちになったナザレと近い、近隣の村里です。そこで婚礼があって、主イエスも弟子たちも招かれました。主イエスの母マリアも招かれていたようですが、弟子たちはどうして招かれたのでしょうか。彼らもガリラヤ出身だったからでしょうか。こんな推測をしますが、ちょうど直前の箇所で、ガリラヤのカナ出身のナタナエルが主イエスの弟子となっています。そのナタナエルの町で婚礼があったので、ナタナエルが自分の先生と仲間だと言って、婚礼の主催者の家族に話したのかもしれません。
当時の婚礼は、3・4日から1週間ほど続いて、大勢の人々が集ったようです。普段は貧しい暮らしをしている人々が、祝いの席を開いて、若い二人の出発を祝福したのです。日常の暮らしではぶどう酒を飲むことができない人々も、そのときには飲むことができました。おそらく若い二人の父母と親戚が費用を出し合って、その宴席を支えたことでしょう。
しかし、朗読したときにお分かりになったと思いますが、途中でぶどう酒が足りなくなりました。(3)そのことを、主イエスの母マリアが、主イエスに伝えています。台所で近所の人々と一緒に手伝っていたのかもしれません。おそらく宴席の主催者の家族に言ったとしても、さらに用意することはできなかったのではないか。そのことを分かっていて、母マリアは主イエスのところに行ったのです。どうしようもないときに、何とかしてください、と祈るのは、神様に対する祈りですが、母マリアの訴えは、そのような、どうしようもないときの、神への祈りに相当するのではないでしょうか。
母マリアの訴えに対して、主イエスはどう応えられたでしょうか。4節「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」とても冷たい受け答えに思われるでしょうか。しかし落ち着いて聞き取ろうとすると、主イエスは、母マリアの訴えだから聞くとは言われていないのです。誰に対しても分け隔てなく、その祈りを聞き届けようとなさる神の姿を見ることが見ることができるのではないでしょうか。あるいは、「わたしの時はまだ来ていません」とは、この個所のカギになる御言葉です。「わたしの時」と言われる主イエスの時は、十字架に栄光を現わされる時です。17章の1節で「父よ、時が来ました」と祈られて、十字架の死と復活の救いへと向かわれたのですが、その栄光の時と、このとき現わされた栄光は、つながっているのです。どのようにつながるのでしょうか。
ある方は、直接この個所に十字架の出来事につながるような言葉がないので、どうつながるのか分からないと言われるかもしれません。確かにそうです。しかし、ヨハネによる福音書を記した当時の教会は、十字架におかかりになり、復活された主イエス・キリストが、今日の箇所にあるような婚宴の席において、喜びのときにも、共にいて助けてくださるのだと信じて書いているのです。ですから、一見して十字架とつながらないような今日な箇所のですが、主イエスが赦しと憐れみの内に、私どものただ中にいて働きかけてくださるということです。その意味では、日々に共に生きてくださるキリストを信じるときに、その主イエス・キリストは十字架におかかりになり、神の裁きを私どもにかわって受け復活された主ですから、十字架と復活の栄光と、このとき現わされた主の栄光は、つながっているのです。
ある祈りを思い起こします。それは、昔からキリスト教会に受け継がれた祈りですが、食前の祈りです。「なくてならないのは罪の赦しと日ごとの糧です」と祈って食事をするときにも、十字架にかかって復活された主なる神が、私どものことを御心にかけて共にいてくださるのです。婚宴の席においてもなおさらです。しかしなぜ婚宴の席で、主は最初のしるしをなさったのでしょうか。
ある神学者は、こんな意味のことを語っています。それは、苦しみや悲しみのときに、神様の助けを必要とするけれども、それと同じように、いやそれ以上に、喜びのときに、神様が共にいてくださる必要がある。なぜ、喜びのときにこそ、主なる神が共にいて、助けてくださる必要があるのでしょうか。それは、喜びのときに、自分を見失うように高ぶったり、神への祈りを失うような思いにみたされてしまうことがあり得るからです。
当時の婚礼の席で、その1週間ほどのときには、花婿は王と呼ばれ、花嫁は王妃と呼ばれることがあったそうです。それは、大きな誘惑ではないでしょうか。そこまでいかなくても、自分で手掛けたことが成功を収めて、自分もまわりもその成功の称賛を受けてかまわないと思えるようなときには、謙遜でいるためには神様の助けを必要としています。
あるいは、自分の喜びのときではなく、ほかの人が成功したり、喜びのときを迎えているときに、ねたまずに共に心から喜ぶのが難しいことを経験なさった方もあると思います。先週、新任教師の研修会が教団全体でもたれて、私はそのスタッフのひとりでしたが、ある牧師がこんな話をしました。それは、仲間からクリスマスに洗礼者が何名与えられたという手紙をもらうと、素直に喜べなかったことが正直あるというもので、私自身もおぼえのあることでした。
婚礼という喜びに席に、主イエス・キリストがそこにおられて、その喜びのときを支えてくださったのは、大きな慰めです。しかも、十字架へと至る時を見据えておられた主イエス・キリストが、喜びの席にいながらそこでさまざまな思いを抱く人々を御心にとめて、救いの道、赦しの道へと招いておられたとすれば、そこで弟子たちが見た栄光は、十字架と復活の道に現わされた栄光とつながっているのではないでしょうか。
私どもの日々の生活の中に、悲しみのときも、喜びのときにも、とくに喜びに直面するときに、そこにも共におられる主イエスが、私どもを憐れみ支えてくださることを信じていきましょう。悲しみや苦難のときに祈るように、喜びのときにも、あるいは共に喜ぶことに足らなさをおぼえるときにこそ、主イエスがおられることを信じて生きていきましょう。

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