2025年6月22日(日)
- shirasagichurch
- 6月22日
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【聖霊降臨節 第3主日】
礼拝説教「来て、見なさい」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 1:43ー51
<讃美歌>
(21)26,14,344,140,65-2,29
主イエスは、私どものことを知っていていくださいます。礼拝堂に集っているから知っていてくださるのは当然と思われるかもしれませんが、私どもが礼拝堂に集うようになる前から、よく知っていてくださるのです。主なる神である主イエス・キリストは、私どもが信仰を抱く前から、神の御心の内におぼえてくださっているのです。私どもが主イエスに心を傾ける前から、私どもの方を向いて御心の内におぼえてくださっていることは、大きな慰めではないでしょうか。
与えられています箇所で、ひとりの弟子が主に出会うのですが、出会う前から御心にとまっていることに驚き、大きな導きを受けて従っていきます。ナタナエルが初めて主イエスに出会うのですが、「どうしてわたしを知っておられるのですか。」(48)とたずねています。さらに主イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(48)と言われたのです。
ナタナエルは、今日の箇所によって有名な弟子ですが、このあとほとんど登場しません。22章2節に、復活された主イエスが弟子たちに出会われたとき、そこにいた弟子のひとりが「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」だったと記されるのみです。しかし有名で、親しまれてきたのは、私どもも、ナタナエルとして神の導きを受けることができると受けとめられてきたからです。
ナタナエルは、フィリポから聞いたときに、すぐに信じることができたでしょうか。フィリポは45節にあるように「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言ったのですが、ナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)と言って信じることができなかったのです。フィリポが言ったことの意味は、人々が遠い昔から待っていた救い主に出会った、という喜びの告白ですが、ナタナエルが聞いて信じることができなかったのは、当然かもしれません。その点では、私どもが今信じることができているとすれば、それは神様から与えられた信仰によってのことです。フィリポは「来て、見なさい」(46)と語りかけましたが、「来て、見なさい」とは、フィリポを通して主が語りかけておられると受けとめることができるのです。「来て、見なさい」とは、教会に与えられた伝道の言葉です。私どもにとっては、礼拝への招きの言葉であるでしょう。私どもがささげている礼拝で主なる神が今も働かれ、出会ってくださる。ですから、主イエスが私ども同様に、お招きしようと思っている方のことも、すでに知っていてくださることを信じて、「来て、見なさい」と言うことができるのです。
「来て、見なさい」と言われたナタナエルは、ガリラヤのカナ出身でしたが、主イエスが育ったナザレは同じガリラヤ近隣の村里です。ヨセフのことを知っていたかもしれません。あんな小さな村里の大工の息子が救い主であるはずがないと思ったのではないか。しかし主なる神は、人々が思いにもかけないところから、救い主を与えてくださったのです。ある神学者は、トマスが復活された主イエスに出会ったと言った仲間の言葉を疑ったのですが、トマスとナタナエルとは、よく似ているという意味で、双子だと言っているようです。しかし疑いから始まったナタナエルは、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(49)と、ほかの弟子たちに先立つようにすばらしい告白をしているのです。トマスも、疑いから始まったのですが、「わたしの主、わたしの神よ」(20:28)と、最もふさわしい告白を主にささげています。
ナタナエルという名前の意味を、改めて調べたのですが、「神は与えたもう」という意味です。まさにその名の通り、彼の生涯が、「神は与えたもう」という恵みをあらわしているのです。
ある方は、主イエスがナタナエルに対して言われた言葉が心にとまるかもしれません。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(47)主イエスが言われた「この人には偽りがない」と聞くと、すぐに私のことだと思うでしょうか。むしろ、自分は偽りがないと言えるだろうかと心を照らされるのではないでしょうか。「偽りがない」とは、真実だと言うことですが、全く罪がないということではありません。その真実の源が神にあることを聖書は伝えています。
詩編32編の1節にこうあります。「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」この告白は、キリスト者すべての告白ではないでしょうか。背きである罪を赦し、その罪を覆って、救いで覆い包んでくださったのは、真実な神様です。2節には「いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」主に罪である咎を数えられないのは、罪を赦されて救いで覆い包まれたからです。そして、心に欺きがないのは、ナタナエルが主イエスから言われた「偽りがない」ということですが、それは5節にあるように、主なる神に罪を告白したことにあります。主の真実を信じて、主よ、わたしを赦してください、わたしは神様の赦しを必要としています、と告白して生きるところに、「心に欺きがない人」としての歩みがあるのです。それは、主の前に真実に生きること、「偽りがない」ことですが、主の真実を信じていくところに、主から与えられる真実があるのです。
さて、主イエスが「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とナタナエルに言われた言葉にもう一度触れたいと思います。「いちじくの木の下にいる」ことは、とても深い意味合いがあります。いちじくの木は、葉がしげるとその木の下は日陰になりますから、人々がそこで休みます。ただ暑さを避けて休むこともあったでしょうが、そこで、御言葉を教師から聞いて学んだのです。ですから、「いちじくの木の下にいる」とは、そこで御言葉を学んでいた、ということです。ナタナエルの祈り、主を求める思いを主イエスは知っておられて、彼に信仰を授けて弟子として導いていかれました。どのようなことを主イエスが言われたでしょうか。
50節で「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」とナタナエルに語りかけて、さらに言われました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(51)
「あなたがたは」と主イエスが言われたのは、当時の人々、さらには私どもをも含んでのことです。「人の子」とは、主イエス・キリストご自身のことです。私どもと同じ人の子となってくださった主イエスが言われたのですが、しかし、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを」このあと、ヨハネによる福音書は、一度も実際に見たことを記していません。明らかに、象徴的な意味で書いています。
ヨハネによる福音書を受けとった教会の人々は、わかったと思います。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」と聞くと、創世記28章にある、あのヤコブが経験したことだとわかって、同じことが、いやそれ以上のことが主イエスによって与えられるのだと信じたということです。どういうことでしょか。
ヤコブは、故郷を離れて旅をし、野宿していました。自分の偽りが招いたことでした。兄の受け継ぐ財産をだまし取ったからです。家にいることができなくなって、旅に出たのです。もう自分のようなものは神から見捨てられていると思ったかもしれません。しかし、初めて父母の家を離れて野宿したときに、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを」見たのです。そして、主が傍らに立って「決して見捨てない」(15)とさえ言ってくださった。そのときにヤコブは「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(17)と告白しました。
ですから、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」ことは、ヤコブ同様に、主が共にいて御言葉を語りかけて「決してあなたを見捨てない」と真実な神の恵みに生かしてくださることです。ナタナエルと弟子たちに主イエスは、わたしがあなたがたの傍らに立つ主なる神であることを語りかけられたのです。
マルティン・ルターは「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」の言葉を翻訳したときに、「あなたがたは見ることになる」を、「今から」という言葉を加えて翻訳しました。「今からあなたがたは見ることになる。」元の聖書の原語には「今から」はないのですが、主イエスが語りかけられた御言葉からすると、それは「今からあなたがたは見ることになる」ということです。弟子たちの傍らに立つ主なる神として、共に生きてくださいました。
教会は、ヤコブが告白したように「神の家」です。「神の家」である教会は、礼拝をささげるときに、まさに天が開くことを信じていきました。礼拝において、主イエスが傍らに立って「来て、見なさい」と御言葉を語りかけてくださるのです。それは「決してあなたを見捨てない」という神の約束に生かしてくださることです。自らの至らなさ、不真実さに悩むときも、罪を赦し救いで覆ってくださる主イエスを信じていきましょう。

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