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2025年6月1日(日)

復活節第7主日


礼拝説教「救い主に出会った」


願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 1:35ー42


<讃美歌>

(21)26,18,58,504,65-2,29


主イエス・キリストは、「何を求めているのか」と言われます。今日与えられています箇所で主イエスは、二人の者が「従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた」(38)のです。主イエスはこの礼拝においても、私どもが主に従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言ってくださるのです。このことは、慰めに満ちた、感謝なことではないでしょうか。

主イエスは、神の子であり、神の独り子、神ご自身であります。そして、すべてをご存じですが、私どもがその必要を、何を求めて願っているかをまず申し上げることをゆるしてくださるのです。ときに私どもはその祈りが自己中心的であり、願い事ばかりを祈っていることを反省させられます。神の御心が実現するようにとの祈りを忘れるからです。しかし、主イエスはそのような私どもを知り抜いたうえで、「何を求めているのか」と聞いてくださいます。ですから、心を注ぎだすように礼拝をささげることができるのです。私どもの願い、求めを主に告白しつつ、御言葉に思いを深めましょう。

洗礼者ヨハネは、二人の弟子と共にいました。その弟子は、洗礼者ヨハネに従っていた弟子です。しかしヨハネが、36節にあるように「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」とき、「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(37)のです。洗礼者ヨハネが、背中を押すようにして主イエスに従うことを促したとも言うことができます。そして主イエスは、「彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた」のです。

彼らは「どこに泊まっておられるのですか」と主イエスにたずねました。彼らがそのとき最も求めていることでした。彼らの人生を決定づけることになるからです。どういうことかと言いますと、「見よ、神の小羊だ」とヨハネが言ったことは、救い主を示したことを意味したでしょう。それをこの先生(ラビ)の泊まっておられるところに行って、じっくり聞いて確かめたかったのです。

さらには、「どこに泊まっておられるのですか」と訳されている言葉は、原語では「どこに留まっておられるのですか」「どこにつながっておられるのですか」という意味でもあります。ヨハネによる福音書15章の有名なぶどうの木のたとえで、主イエスはご自身をぶどうの木にたとえて「わたしにつながっていなさい」(4)と言われます。この個所で「泊まっている」と訳されている言葉と同じです。その意味では、二人の弟子が、主イエスにつながって生きることが、すでに始まっているのです。

主イエスの弟子となった二人のうち一人は、「シモン・ペトロの兄弟アンデレ」(40)でした。残りのもう一人は、名前が記されていません。今では確かめることはできませんが、昔から、いろいろと想像されていきました。ひとつには、この福音書に名前が付されているヨハネ(洗礼者ヨハネとは別人)ではないかということです。もっとも近くで主イエスに従い、その御言葉と御言葉による出来事を見ていたヨハネではないかというのです。

二人の弟子が、主イエスの泊まっておられるところについてきたいと願ったとき、主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」(39)と言われました。この言葉は、直訳すると「来なさい、すると見る」という意味です。「見る」ことは見て分かることにつながります。礼拝において、しっかりと主の御言葉を聞くことは、主をしっかりと見つめて主の御心が分かることにつながるのです。主イエスは私どもを招いて「来なさい、すると見る」「来なさい。そうすれば分かる」と語りかけてくださいます。私どもに信仰を与えて、主イエスが誰であるかを分からせてくださるのは、神ご自身の恵みによる働きです。

主イエスに従った二人の弟子について福音書は、「彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た」(39)とあります。さらには、「そしてその日は、イエスのもとに泊まった」と書いていますが、「その日、イエスのもとにとどまった」あるいは、「その日、イエスにつながった」と訳すことができるのです。彼らはまさに主イエスの弟子となって従い、主のもとにとどまり救い主とつながる歩みが与えられたと理解することができます。そのことをある神学者は、「午後4時ごろのことである」という言葉から読み取れる、と解説します。「午後4時」は、原語では当時の時刻で「10時」で、両手の10の指が満たされる数字です。ときが満ち、主イエスのもとにとどまり、つながることが成就したというのです。

時が満ちるように、アンデレは、その兄弟シモンのところに行って語りかけました。「わたしたちはメシア-『油注がれた者』という意味-に出会った」(41)「メシア」は、油注がれた者という意味で、当時は救い主を意味する言葉でした。アンデレは「わたしたちは救い主に出会った」と語りかけました。「出会った」という言葉は、「見いだした」という意味です。「救い主を見いだした」という喜びの言葉です。

「わたしたちはメシア(救い主)に出会った」という言葉は、アンデレから兄弟ペトロに受け渡され、ペトロの告白ともなりました。主イエスから「ケファ」と呼ばれたシモンでしたが、「ケファ」は「岩」(ペトロス)という意味ですので、ペトロと教会で呼ばれるようになりました。

「わたしたちはメシア(救い主)に出会った」という言葉は、アンデレから兄弟ペトロに受け渡された、と言いましたが、やがてこの言葉は、教会の宣教の言葉となりました。私どもがキリストの教会の一部一部として生きていることは、ほんとうに神様がなしてくださった恵みによることです。そして私どもは、「わたしたちはメシア(救い主)に出会った」という喜びの言葉を、受け継いで生きています。ここに教会が存在し、また礼拝をささげ続けていることは、私どもが「救い主に出会った」と世に語りかけているのです。そして、私どもが信じている救い主は今もなお、「何を求めているのか」と愛をもってたずねてくださることを信じていきましょう。


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