2025年6月15日(日)
- shirasagichurch
- 38 分前
- 読了時間: 5分
【聖霊降臨節 第2主日】
礼拝説教「聖霊の証印」
竹澤 潤平 牧師
(明治学院高等学校 聖書科主任)
<聖書>
エフェソ 1:3ー14
<讃美歌>
(21)26,3,458,479,65-2,29
エフェソの信徒への手紙を書いたであろうパウロ。彼はここで、論理的推論を展開しているのではなく、心からあふれ出す想いが流れ出るままに語っています。そうであるなら、私なりにこの聖書箇所を、3-12節の部分ですが、私の想いのままに言い換えたいと思います。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえます。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福、救いの約束で満たしてくださいました。
なんと、天地創造の前から、神はわたしたちを愛しておられ、キリストにおいて聖なる者、汚れのない者にしようと、お選びになったのです。イエス・キリストによって神の子にしようと、前もってお決めになってくださっていたのです。そんなことってあるでしょうか。なぜそのようなことをなされたかって、神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためだっていうのです。わたしたちは御子イエス・キリストの血によって贖われ、罪を赦されました。これほど豊かな恵みがあるでしょうか。天地創造の前から決められていた、壮大な救いの御計画があったっていうのです。そして、神はこの恵み溢れる秘められたご計画をわたしたちに知らせてくださいました。キリストにおいて既にわたしたちは、その約束の相続者とされている。その知らせを聞いて、ほめたたえずにいられるでしょうか。何も誇ることできないこの私を、私たちを、そのような壮大な救いの御計画に入れてくださった神のご栄光をほめたたえざるを得ないのです。
こうして救いが満ち、すべての神の民が神をほめたたえるなかで、天にあるものも地にあるものも頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。今ここに集められている私たちがまさにそのような群れであります。
エフェソの信徒への手紙の著者、パウロが生涯どのような歩みをなしていたか、皆さんだいたいご存知である前提で話を進めさせて頂きます。
当時のパウロの状況は、はたから見れば思わしくなかったかもしれません。少なくとも、とても大喜びするような状況ではなかった。エフェソにおいてある程度伝道は成功しましたが、アルテミス神殿に関わる偶像を作っていた職人たちから反感を買い、その人々に扇動された人たちによる暴動にも巻き込まれました。エフェソではないですが、コリントにある教会にも何度悩まされたことか。
パウロの伝道の旅は苦難と試練の連続でありました。その中で、こうも喜びに満ち溢れている。短い今日の聖書箇所の中で、四度も神をほめたたえることが言及されています。それほどに、決定的な神の恵みが、救いの約束があるのだと。
エフェソの信徒への手紙は、パウロではない、別の人が書いたのだという説があります。もし、エフェソの信徒への手紙が他の著者の書いたものだとしても、同じようなことでしょう。パウロに師事し、パウロを通して福音を聞いた人物がこれを書いた。その人物も、パウロと同じく決して順風満帆な伝道活動を送っていたわけではないのは明らかです。しかし、ここにあふれでる恵みへの応答がある。ほめたたえざるを得ない輝かしい恵みがここにあるのです。
少しわざとらしかったかもしれませんが、私の言い換えはどうだったでしょうか。皆様でしたら、どのように、救いの約束に満たされている自身の現状を言い表すでしょうか。残念ながら、あまりこのような喜びに満ち溢れた発言を、応答を、日常で聞くことは少ないように感じます。私はキリスト教主義学校に勤めていますが、そこでも不平不満、愚痴ばかりです。なかなか、クリスチャンの教師の方々は、慌ただしい学校生活において、この手紙のような喜びに満たされた時を過ごしている様には見えません。
かくいう私もそうかもしれません。日々の忙しい目の前の事柄に、頭も心も囚われてしまっていることが多々あります。祈る時を忘れ、神の恵に感謝すること少なく、この口から賛美の声があふれ出ていない。それでいいのでしょうか。
そのような者たちにパウロは、エフェソの信徒への手紙は、語り掛けてきます。<あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。>
エフェソの信徒への手紙はわたしたちを励ましています。あなたがたも、贖われており、神の栄光をたたえることになるのだ。その根拠は、あなたが頑張るからどうこうではない。ただ一方的な恵みによって聖霊を与えられた、それが根拠だ、だから大丈夫だと。
誰も聖霊の働きによらなければ、イエスは主であると言うことは出来ない。心で信じて、口で公に言い表しているではないか。それらが、あなたに聖霊の証印が押されている証拠だ。大丈夫。ただ神様の側に根拠があるのだ。神様ご自身の自由な決断のうちに、わたしたちは救いの御計画の中に入れられている。
日本基督教団の教勢が芳しくない、出版局が大変だ、若者が教会に来ない。そのような声が方々から聞こえてくる昨今です。そんなこと百も承知の神様が、私たちに約束されている。この現状に到来する神の国、その民となる聖霊による保証、永遠の命。私たちの力でどうにかできる現状ではないけれど、確かに天地創造の前から御計画してくださっているお方がいる。そのお方に寄り頼みたいと思います。わたしたちの想いをはるかに超えて、死の先まで導いてくださる、主なる神の御声に聞き従いつつ、共にこの世の歩みを歩みきりたいと思います。

Comments