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2025年5月4日(日)

復活節第3主日


礼拝説教「言葉に命があった」 


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 1:1-5


<讃美歌>

(21)26,6,54,183,65-1,29


主イエス・キリストは、私どもの光となってくださいました。私どもは生きていくときに、光がなくては生きていくことはできないでしょう。主イエス・キリストは、信仰生活を生きる私どもキリスト教会にとって、なくてはならないお方、光であるのです。

本日から、ヨハネによる福音書から神の御言葉を共に聞きます。ご一緒に、御言葉の光に照らされていきたいと願います。

ヨハネによる福音書は、「光の福音書」と呼ばれることがあります。それは、この最初の箇所にある「光」が、主イエス・キリストのことであって、この福音書全体を貫いているからです。4節5節「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

主イエス・キリストは、私ども人が生きていく上で、どうしても必要な命であり、なくてはならない暗闇を照らす光であるのです。

ヨハネによる福音書が記されたのは、四つの福音書の中で、一番あとの、90年から100年ごろと言われます。その頃は、とても迫害の厳しい時代でした。とくに、95年ごろのローマ皇帝ドミティアヌスの迫害のころと重なります。暗闇がおおうように、主イエス・キリストを信じる信仰生活がおびやかされていたのです。しかし、ヨハネによる福音書を受けとった教会は、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」という御言葉が真実であることを、教会生活のなかで経験していったのです。

「暗闇は光を理解しなかった」というのは、直訳すると「暗闇は光を捕まえられなかった」ということです。どんなに迫害が厳しくても、たとえキリスト者たちが捕まえられたたとしても、信仰そのものを牢に入れることはできなかった。主イエス・キリストを信じる信仰を消し去ることはできなかったのです。

私どもも、迫害を受けていなかったとしても、さまざまに暗い部分を抱えていることがあるのではないでしょうか。この思いは人に知られることはできないというような、暗い思いや人を受け入れられない思いを抱くことがあります。そのままでは神様の前に出ることはできない闇を抱えることがあるということです。しかし、主イエス・キリストは私どもを光として照らして、闇を光と変えてくださるのです。あるいは、病気に苦しむことがあります。しかし、いかなる病気も、信仰を奪うことはできない、病気のとき、苦しみのときに、なおも祈ることができる、それは命がある光を、御言葉によって与えられているからです。4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とある、「人間」を自分の名前をあてはめて読むことができるのです。


新共同訳聖書を礼拝で用いていますが、通常「言葉」と書くところを「言」という一字で「言」(ことば)と読ませています。これは、聖書を翻訳した学者たちが苦労して、私どもが用いる「言葉」とは区別して、神の言葉を「言」(ことば)という一字で表記したのです。ただ、教会の玄関に記す説教題は、通りを歩く方が見たときに「言に命があった」とすると、読めないか、間違いではないかと思われるかもしれないと考えて普通の表記で「言葉に命があった」としています。

ヨハネによる福音書の冒頭は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」とあります。この御言葉は、創世記の最初にある、天地創造を思い起こさせます。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストが、天地万物が創造されるその前からおられ、父なる神と共におられた神ご自身であって、そのお方が、救い主として地上に来られ、救いの道を開いてくださったことを伝えているのです。神様が、御言葉によって天と地を創造された、その御言葉は、主イエス・キリストご自身であるのです。

先ほど、神の御言葉を「言」という一字で表していると言いました。旧約聖書で、神の言葉は、「ダバール」というヘブライ語が通常使われています。新約聖書をヘブライ語に翻訳した聖書を調べますと、ヨハネによる福音書1章1節の「初めに言があった」という箇所の「言」(ことば)は「ダバール」が使われていました。しかも冠詞が付いていますので、明らかに神であるお方、主イエス・キリストを表しているのです。

「ダバール」は、言葉という意味と共に、神の御言葉の通りに出来事が起こるので、出来事、行為という意味もあります。その点では、私どもの言葉は、葉っぱのようにうすっぺらで、ひらひらと地に落ちるような、あてにならないことがあるのではないでしょうか。私どもの言葉に対して、神の御言葉は確かで、そこに私どもを生かす命があるのです。


神の御言葉を信じて生きていくということは、主の御言葉が私どもの生活の一部として成就することを信じていくことでもあります。「光は暗闇の中で輝いている」との御言葉は、私どもが自分の思い通りにならない、いかなる闇を経験するときにも、主イエス・キリストが光として私どもを導いてくださることでもあります。一人一人を個人的に導いてくださることもそうですが、私どもがキリストの教会として歩むときに、まさに光として主は照らし導いてくださるのです。

御言葉は私どもを照らす光であり、主の御言葉に命があることを信じていきましょう。



 
 
 

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