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2025年5月25日(日)

復活節第6主日


礼拝説教「イエスは神の小羊」


願念 望  牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 1:19ー34


<讃美歌>

(21)26,13,234,358,65-1,29


洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストが誰であるかを命をかけて証ししました。ヨハネの「証し」とは、証言という意味です。原語でマルテュリアという言葉ですが、のちに殉教という言葉のもとになりました。迫害の厳しかった当時、主イエスを証言(証し)することは、殉教をともなうほどに命がけであったからです。それほどに、今日の箇所に記されている「証し」は尊いものです。ヨハネの証しは、主イエス・キリストは、「神の小羊」(29)であり、「神の子」(34)であるということです。この証しの言葉が、どれほど尊いものであるか、私どもはすぐに心に響くでしょうか。ヨハネによる福音書を受けとった当時の教会の者たちは、おそらく心と体をゆさぶられるような感動をもって聞きとったはずです。

ヨハネは、29節にあるように主イエスについて証言しました。「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」私は、改めてこのヨハネの証言を聞いてはっとしました。それは、主イエスのことを「メシア」とは呼ばずに、「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っているからです。今日の箇所の前半、19節から28節では、ヨハネが人々からたずねられて、自分はメシアではないと言い、メシアを指して「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(27)と言ったのです。しかし、なぜ主イエスを見て、この方こそメシアだ、とは言わずに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語ったのでしょうか。

当時の人々は、メシアを待ち望んでいまさしたが、イスラエルを支配しているローマ帝国から解放してくれる者を期待していました。軍隊を率いてでも自分たちを政治的に独立させてくれるようなメシアです。その意味では、「世の罪を取り除く神の小羊」としてのメシアを人々は待望していなかったのです。しかしヨハネははっきりと、「世の罪を取り除く神の小羊」としてのメシア(救い主)を証言することができたのです。

「世の罪を取り除く神の小羊」とは、どのような深い意味があるでしょうか。この言葉を聞くと、多くの神学者が思い起こすのは、イザヤ書53章にある「小羊」の姿です。主なる神がひとりの人に負わせた姿を、「屠り場(ほふりば)に引かれる小羊のように」(7)と記しています。そして負わせたものを6節に表しています。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせた。」「わたしたちは」とありますが、ヨハネはこの聖句を思い起こして、「わたしたちは」とあるところにヨハネも含めた自分たちを当てはめていたのではないか。まさに私どものことを言っているのです。

 「世の罪を取り除く神の小羊」である主イエス・キリストは、「世の罪」とあるのですから、すべての者の救い主となってくださったのです。その救い主は、イザヤ書53章にあるように、私どもが担うべき自分の罪を代わりに負って神の裁きを受けてくださった「神の小羊」であるのです。しかも、「世の罪を取り除く」とある「罪を取り除く」ことは、罪を赦すだけではなく、罪の支配から神の恵みの支配に移すことを語りかけているのです。ヨハネの手紙一は、ヨハネによる福音書とよく似ていていると言われますが、3章5節に「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために来られました。」とあるとおりです。

 私どもは、罪に悩むことがあります。しかし、救い主である主イエス・キリストが、私どもの罪、世の罪を取り除いてくださることを信じて祈っていく必要があります。確かに罪が加わるように、世の姿が決して良い方向に向かっているとは思えない、さまざまなことを見聞きすることがあります。しかし、罪が加わるようなところに、神様が恵みをさらに加えて、世の罪を取り除く働きをしてくださっていることを教会は信じて祈ってきました。これからも、罪が加わるようなところに、神様が恵みをさらに加えて、世の罪を取り除く働きをしてくださっていることを信じて、祈りをもって神に仕えていきましょう。

はじめに、ヨハネの証しは、主イエス・キリストは、「神の小羊」(29)であり、「神の子」(34)であると言いました。「神の小羊」である主イエス・キリストについて語ってきたのですが、主イエスが「神の子」であると聞いて、私どもはすぐに心に響くでしょうか。

ヨハネは、「この方こそ神の子であると証ししたのである。」(34)と語っています。主イエス・キリストが「神の子」であるというのは、とても深い意味があります。1章18節にこのように書かれています。これも福音書の大切な証言のひとつです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ヨハネによる福音書の中で、重要な聖句ですが、主イエス・キリストが「神の子」であるということは、「父のふところにいる独り子である神」であり、「この方が神を示された」ということです。ヨハネは、主イエスに出会ったということは、「独り子である神」に出会った、という意味で「この方こそ神の子である」とその存在をかけて声を響かせています。ですから、「神の子」である主イエスに出会うことは、神に出会うことなのです。

ヨハネの声の響きは、「荒れ野で叫ぶ声」であり「主の道をまっすぐにせよ」(23)と語りかけているのです。ヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と叫びましたが、その「まっすぐ」であることは、主イエス・キリストを私どもが、ふさわしく信じて見上げていくことです。

ヨハネによる福音書が語る主イエス・キリストの証言を、私どもも信じて受け継いでいきましょう。先ほど、「神の子」である主イエスに出会うことは、神に出会うことだと言いました。ヨハネによる福音書を受けとった教会の人々は、礼拝の中で、御言葉により聖霊の働きを通して、主イエス・キリストに出会い続けていきました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という証しを受けとるところに、主イエス・キリストとの出会いがあることを信じていきましょう。



 
 
 

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