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2025年5月18日(日)

復活節第5主日


礼拝説教「主に倣う者として」


柳田洋夫 牧師(聖学院大学チャプレン、人文学部教授)

 

<聖書>

テサロニケの信徒への手紙一 1:1ー10


<讃美歌>

(21)26,13,55,402,65-1,29

 

「テサロニケの信徒への手紙一」は、新約聖書の中で最も古いもので、紀元50年頃に書かれたものと考えられています。このテサロニケという町ですが、天然の良港に恵まれ、また、ローマへと続く街道沿いに置かれて古くから栄えた都市でした。パウロの生きていた時代、この地域はローマの属州であるマケドニア州の首都でした。ちなみに、このテサロニケの港は、テルマイコス湾という湾に面していますが、これは、温泉の出る湾という意味だそうです。「テルマエ・ロマエ」という漫画があって、映画にもなりましたが、テルマイコスというのは、その、テルマエという「浴場」を意味する言葉にも通ずるものです。このように、テサロニケの町は、自然環境にも恵まれた、政治・文化・経済の一大中心地であり、今でもギリシアではアテネに継ぐ第二の大都市となっています。

パウロは、キリスト者としての信仰と生活について重要なことを、挨拶の中でもテサロニケの人々に伝えようとしています。3節にはこのように記されています。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。

しかしここで、ただ徳目や努力目標が漠然と並べられているのではありません。ここでは、信仰・希望・愛ということが、しっかりと現実の生活に根ざしたものとなるために大事なことが付け加えられています。すなわち、信仰には「働き」が、愛には「労苦」が、希望には「忍耐」が伴うということです。言葉を変えて言えば、「働き」を伴わない信仰、「労苦」を伴わない愛、そして「忍耐」を伴わない希望などというものはありえないということです。

また、6節には、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者」となったという言葉があります。パウロがテサロニケに手紙を書いた頃は、教会生活についてまとまった教えを記したものなどほとんどなかったと思われますから、実際問題として、信仰生活については、生きた手本に頼るところが大きかったと思います。もちろん、パウロ自身がそうであったように、キリストに倣う、ということが根本ですが、同時に、先に立つ信仰者の姿を倣うことなくして、私達自身が確かな信仰の歩みをなすというのは難しいことだと思います。私たちもこれまで、信仰の先輩たちの生き方あり方に倣いつつ歩んできたはずです。またここでパウロは、自分が偉いから見習いなさい、と言いたかったのではなく、あくまでも自分をとおして、キリストに倣うという姿勢そのものを伝えたかったのだと思います。

 しかしながら、テサロニケの教会が、主に倣い、パウロに倣うことができたのは、決してパウロ自身の力によるものではありませんでした。また、テサロニケの人々の力によるものでもありませんでした。それはひとえに神の導きによるものであることを、パウロは何よりも大事なこととしています。2節に「あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」とある通りです。また5節には、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」とあります。神の導きとは、抽象的なものでなく、聖霊を通した神の確かな力を伴うものです。そして、それゆえに、この世の、そして私たちの現実に食い込み、現実を変える力を持つものです。パウロはその神が現実を変えられる力を目の当たりにする思いでこの手紙を書き綴ったのではないかと私は想像します。パウロがテサロニケで伝道した期間は、もしかしたらわずか三週間、しかも、突然夜逃げ同然で立ち去ってしまいました。パウロ自身、何も出来なかったという後悔ばかりが先に立つような場所であったかもしれません。そうであるにもかかわらず、模範的であるとまで言わねばならないほどに、テサロニケ教会の人々は、しっかりと信仰の歩みを続けていました。パウロは、離れた町にいるにもかかわらず、神のみ業をまざまざと、ありありと見せつけられたということにもなるでしょう。

テサロニケの信徒への手紙は、もしかしたら一見地味なものにも見受けられるかもしれません。しかし、その中身を見ると、十字架と復活の主キリストについて、またその再臨についてしっかりと記されています。また、教会も、すでに信仰・希望・愛という、キリスト者にとって大事な生き方あり方を明確に心に刻みつつ、キリストに倣う者にまた倣うという歩みへと導かれていたことがわかります。そのようにして、この最も古い手紙の、最初の部分にすでに、私たちが心にとめておくべき大事な教えがかなりの程度網羅されているのはちょっとした驚きでもあります。そしてまた、イエス・キリストによる神の救いのみ業が、教会のいちばん始まりのころから、今に至るまでゆるぎなく伝えられてきたことにまた驚かずにはいられません。

私たちは、神がイエス・キリストによって示し、与えてくださった、まことのいのちの喜びに生きる幸いをこの世の隣人と分かち合うべく召されています。そしてまた私たちは、その生き方を分かち合うことによってこそ、いっそう大きな、確かな喜びの中に生かされる者たちでもあります。



 
 
 

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