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2025年5月11日(日)

復活節第4主日


礼拝説教「恵みの上に恵み」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 1:6-18


<讃美歌>

(21)26,2,55,281,65-1,29


主イエス・キリストは、私どもの光となってくださいました。9節にあるように、「すべての人を照らす」光となってくださいました。「すべての人を照らす」のですから、信じる者だけではなく、信じない者、受入れない者をも、神の愛をもって照らしてくださるのです。ですから、主イエス・キリストが光であることは、すべての人に及ぶ神の愛を表していますので、ヨハネによる福音書は、喜びをもって始まっています。

 「ヨハネによる福音書は、喜びをもって始まっています」と言いましたが、ヨハネによる福音書の冒頭の1章1節から18節、序章には、喜びという言葉はありません。しかし、なぜ喜びにあふれていると言うことができるのでしょうか。それは、この冒頭の序章は、多くの神学者が指摘するように、当時の教会の賛歌、神をたたえる賛美歌であるからです。神への喜びの賛歌によって、ヨハネによる福音書は始まっています。

 カトリック教会のフランシスコ会訳には、わかりやすく冒頭の1節から18節の賛歌が記されています。1節から5節が賛歌1で「神であるみ言葉」という表題が付いています。そして、6節から9節は洗礼者ヨハネについての記述、10節から14節は賛歌2で「人間となったみ言葉」と題があります。15節は再びヨハネについての記述で、16節から18節が賛歌3「恵みと真理をもたらしたみ言葉」です。

 賛歌と言うと、聖書では詩編が元々は、神への賛歌集です。先週132編を学びましたが、9節にある「あなたの慈しみに生きる人々は 喜びの叫びをあげるでしょう。」とある、喜びの叫びが、このヨハネによる福音書の冒頭の賛歌にあらわれていると思います。ですから、喜びという言葉はなくても、賛歌によって、ヨハネによる福音書は「喜びの叫び」を記しているのです。

 喜びの叫びが記されている御言葉の中で、14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。本当に、味わい深い御言葉です。「言」(ことば)は、神である御言葉のことで、その御言葉が肉である人間になったというのは、主イエス・キリストのことです。その主イエス・キリストが、「わたしたちの間に宿られた」というのは、私どもの一人として生きてくださったということです。しかし「宿られた」と訳されている言葉は、もっと深い意味合いのある言葉です。「宿られた」の原語は、「幕屋を張る」という意味です。旧約の時代に、信仰者たちがエジプトの奴隷生活から救い出されて、荒れ野の旅をしていたときのことです。彼らは、神に命じられて天幕を張って、そこを神の宿るところ、礼拝堂としました。ですから、ヨハネによる福音書が「わたしたちの間に宿られた」と語ったときには、あの旧約の時代に荒れ野での信仰者たちを導いた、同じ主なる神が私どもと共に生きてくださるようになった、救い出してくださったことを、喜びにあふれて記したのです。

 先ほど、賛歌と賛歌の間には、ヨハネについての記述があると言いました。その記述にも、喜びの叫びを感じます。たとえば15節に「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。」とある、「声を張り上げて言った」ヨハネの思いに、福音書の記者は思いを重ねたはずです。「わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」というのは、単に自分よりも優秀ということでも、人生の先輩という意味でもなく、「わたしたちの間に宿られた」神であるということです。その神の栄光に触れて、栄光の輝きに照らされて伝えているのです。

「栄光」という言葉は、福音書を記したヨハネがよく知っていた旧約聖書のヘブライ語では、「カボード」ですが、「重み」という意味があります。栄光は、光であり輝きですが、そこに「重み」という意味がるのは、とても味わい深いものがあります。主イエス・キリストの栄光に重みがあるのは、十字架の栄光の輝きであって、尊い命の犠牲が伴っているからです。その十字架の死と復活による救いの輝きと重みのある栄光を、ヨハネによる福音書は喜びをもって記しているのです。

 ヨハネが喜びをもって記している御言葉の中から、16節に触れたいと思います。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」とあります。私は「恵みの上に、更に恵みを受けた」という御言葉を思い巡らしました。

 「恵み」というのは、私どもにそれを受けとる理由がないのに、神様が愛によって与えてくださるものです。それは、主イエス・キリストの救いがまさに恵みそのものです。私どもは、主の恵みを感謝して、恵みを数えるように感謝して生きていると、さらに主は恵みを与えて導いてくださいます。それは、「恵みの上に、更に恵みを受けた」経験であるのです。その恵みは。「満ちあふれる豊かさの中から」与えられるのですから、無尽蔵の神の豊かな愛から出ているのではないでしょうか。しかし、無尽蔵だからといって、軽々しく受けて無駄にすることはできないでしょう。そこには、「栄光」に「重み」の意味合いがあるように、恵みにも、大切な恵みの重みを感じる必要があります。

 恵みの重み、かけがえのなさは、どこで感じることができるでしょうか。それは、礼拝の中で、共に神をたたえる礼拝の中で、主の恵みの尊さ、恵みの重みを感じることができるのです。とくに、私どもを愛してくださっている主の御言葉によって導かれていく中で、私どもは恵みを知り続けて、その恵みの中身を味わっているのではないでしょうか。

 素朴に、主に恵みを数えて感謝して生きていきましょう。それは、喜びにあふれて、私どもを生かすことになります。主がすべての人を照らしてくださるように祈っていくこと、すなわち、主の御心が地の上にも実現するように祈っていくことは、主の恵みの光と共に生きていくことです。

 恵みは、私どもの欠けたところを満たすように主なる神が働いて、与えてくださるものです。しかし、もっとも必要な、人が満たすことができない欠けは、主に受け入れられて救いを受けることです。すべての人がなくてはならない救いを受けるよう、すべての人を恵みで満たそうと、主が働いてくださることを信じて、主の働きに仕えていきましょう。


 
 
 

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