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2025年4月6日(日)

受難節第5主日


 

礼拝説教 「真実の神」    


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 5:13-21


<讃美歌>

(21)26,4,303,394,64,29

 

 今年度最初の主日礼拝をささげることができることを、主の恵みと信じて御名を賛美します。先週の4月3日の祈祷会も、今年度最初の祈祷会でしたが、そこで学んだ詩編128編の冒頭は、このように語りかけています。

「いかに幸いなことか

 主を畏(おそ)れ、主の恵みに歩む人よ。」(1)

 この詩編は、「都に上る歌」と表題が付いていて、当時エルサレムにあった神殿の礼拝に向かっていく巡礼の歌だったと言われます。礼拝をささげることを喜びとしている人々に向かって、礼拝をその人生の中心に据えていくことを祝福して「いかに幸いなことか 主を畏(おそ)れ、主の恵みに歩む人よ」と語りかけています。主を畏れる、という字は畏れ敬う、の畏れるという字が使われています。主なる神を神としてたたえて、このお方なしには自分は生きることができないことを告白して歩むことは、主を畏れ敬って生きることです。主の恵みは、私どもに受ける理由がないのに与えてくださるもの、神からの賜物です。礼拝において、私どもはいつも恵みを主からいただきながら生きているのではないでしょうか。

 「いかに幸いなことか

 主を畏(おそ)れ、主の恵みに歩む人よ」と語りかける詩編は、主を畏れ、主の恵みに生きるときに、日々の労苦に実りが与えられ、家庭が守られていく祝福を約束しています。そのことは、まず神を第一として、礼拝を中心に信仰生活を生きるときに、すべての必要をご存じである主が助けて支えてくださることを語っているのです。いにしえの信仰たちは、そのような恵みに生きたことの喜びを歌いました。そして、仲間たちと共に、「いかに幸いなことか」と神をたたえて歌ったのです。その喜びや感謝と、今日与えられています箇所がつながる思いがしています。

 12節には、「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」と、ヨハネはこの手紙の結びのような言葉を書いています。実際、ある神学者は、この手紙の本文はここまでで、そのあとは追伸のような、いろいろと書き添えられたものではないかと言います。いずれにしても、ヨハネが、1章4節で、「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と語り始めたこの手紙全体の中心に流れている思いは、先ほどの詩編の語りかけに言い表されているのではないかと思います。「いかに幸いなことか 主を畏(おそ)れ、主の恵みに歩む人よ。」

 先ほど読んだ12節の「永遠の命を得ていること」の意味合いは、すでに11節に語られていました。「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」永遠の命そのものである神の御子イエス・キリストと結ばれて生きることが、私どもが「永遠の命を得ている」ということです。そして、御子イエス・キリストと結ばれて生きることの信仰生活の喜びは、「いかに幸いなことか 主を畏(おそ)れ、主の恵みに歩む人よ」と歌われている喜びにつながる信仰生活の喜びであります。そのような尽きない喜びは、主なる神から来る、恵みによって与えられる喜びで、その源は主なる神にあり、主が招いてくださる礼拝の喜びでもあります。

 先日施設からこの礼拝にオンラインでつないで参加されている仲間を訪問しました。とても喜んでおられて、みなさんによろしくお伝えくださいと話されていました。あるいは礼拝の説教要旨を仲間から受けとって、祈りの内に礼拝に出席しておられる方もあります。その方たちと共に主は私どもに、「いかに幸いなことか 主を畏(おそ)れ、主の恵みに歩む人よ」と語りかけて祝福してくださっているのです。


 先ほど、この手紙の終わりには、追伸のようにいくつかのことが書き添えられていると言いました。一つには、祈りのことです。14節の「何事でも神の御心に適(かな)うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」とあります。このことは、祈るときにいつも心に刻んでおくことであるでしょう。祈ってもかなえられないのは、それは神の御心からずれているから、あるいは時が来ていないからでしょう。しかし、ここでは「神に願ったことは既にかなえられている」(15)ともあります。そのかなえられた恵みの中心には、神の御子イエス・キリストとつながる永遠の命があることを見落としてはならないのです。神の御子イエス・キリストについて、この手紙の終わりに、「わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。」(20)と告白して、その「御子イエス・キリスト」について、「この方こそ、真実の神、永遠の命です。」と語りかけています。私どもは礼拝のたびごとに、「この方こそ、真実の神、永遠の命です」と救い主イエス・キリストを知り続けて、信仰を深めさせていただきましょう。

 私どもが神様から与えられて託されているものに、それぞれの体とその命があるのではないでしょうか。神から与えられた命を感謝して大切にその人生を歩むことは、神の御心にそったことでしょう。ヨハネは、そのことと共に、主なる神と信仰生活においてつながっている恵み、救いを語っています。そして、御子の命とつながらないときに、その人の内に永遠の命がないことも語っています。(12)

 ヨハネは大切な恵みを語るときに、愛をもって戒め、決して恵みを失うことがないように、信仰を捨てて、救ってくださった御子を捨てることがないようにと語りかけています。それが、「死に至る罪があります」(16)という言葉です。この言葉は、多くの神学者たちを悩ませてきました。死になる罪とは何か、と言い切ることはできないでしょう。しかし、救ってくださった御子イエス・キリストへの信仰を言い表した者が、その信仰を捨て、主イエス・キリストを呪って生きるなら、それは死に至る罪ではないでしょうか。そのままいくと滅びるしかないのです。21節に「子たちよ、偶像を避けなさい」とありますが、偶像とは神以外のものを神とすることで、神を否定して、自分を神として独善的に生きることはもっとも避けるべきことで、それもまた、神の命とつながらない、死に至ることではないでしょうか。

 ヨハネは、命に至る道を心から願って語りかけています。それは、主なる神の語りかけでもあります。命に至る道は、すでに神の命と結ばれて生きることです。その喜びは、礼拝の喜びですし、礼拝から始まる生活の中にある神の助けを知る喜びです。私どもは、その主の恵みを味わったのではないでしょうか。私どもは、「いかに幸いなことか」と神をたたえて歌いながら生きていきましょう。



 
 
 

1 Comment


Winola Joe
Winola Joe
13分前

永遠の命と真実の神について深く考察し、礼拝の喜びと信仰生活の本質を詩編と結びつけて説き明かした心に響く説教です。picapica booth 

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