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2025年4月27日(日)

復活節第2主日


礼拝説教「命の道」  


願念 望 牧師

 

<聖書>

詩編 16:5-11


<讃美歌>

(21)26,17,327,447,64,29


主イエス・キリストは復活されました。先週、主の復活を祝うイースター礼拝をささげましたが、キリスト教会は主の復活が週の始めの日の朝の出来事だったのを記念して、日曜日に主日礼拝をささげてきました。ですから毎週の礼拝が、主の復活を告げる礼拝でもあるのです。主イエス・キリストは復活され、今もこの礼拝の中心に共にいて導いてくださいます。

先週は主の復活の出来事を語る聖書の箇所から、主の御言葉の語りかけを共に聞きました。今週は詩編16編を与えられていますが、この詩編も、主の復活を語る詩編として大切に受け継がれ、愛されてきました。

なぜ主の復活が詩編16編に告げられているかを、最初に語ったのは、12弟子のひとりのペトロでした。それは、教会の誕生日と言われるペンテコステの日の説教においてのことです。神の霊、聖霊が来てくださり、教会が誕生して、弟子たちが神の福音を語りかけたときに、人々は何が起こったのか、受けとめきれないでいました。そのときに、ペトロが聖書の言葉によって、ここに起こっていることは、聖書の言葉が成就したのだと御言葉の説教を語りかけたのです。

ペトロの説教は、使徒言行録2章に記されていますが、その説教の中で、主イエス・キリストが復活されたことの証人として語りかけています。そして、主イエスが復活されたことは、詩編16編に記されていることが成就したのだと、語ったのです。聞いている者たちの中には、詩編16編の言葉を暗唱するように知っている者たちがいたでしょう。当時は、巻物の聖書を大切に朗読して聞いていましたが、詩編は何度も何度も礼拝で讃美歌として歌い、また暗唱できる人もめずらしくなかったでしょう。聞いている者たちは、ペトロが語ったときに、はっとしたのではないかと思います。

ペトロは、ペンテコステの説教の中で、詩編16編の8節から11節を引用しています。

とくに、10節の「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく」という告白は、主イエスによって成就したのだと語っています。陰府というのは、死者の世界と考えられていました。「渡す」と訳されている言葉は、「捨ておく」という強い意味にも訳すことができます。ダビデが「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。」(10・11)と神をたたえて歌ったことは、死ぬようなところから助け出されたことを感謝して告白したはずです。しかし、ダビデが経験したことは、救い主がやがて復活なさることを、はるかに指し示すように垣間見ていたのです。

私どもにとって、詩編16編で告白されていることを、主イエス・キリストを信じて告白していくことができます。「わたしは」と書かれているところに、自分の名前を当てはめるようにして自分たちの告白、神をたたえる讃美歌として歌うことができます。復活された救い主、主イエス・キリストが私ども一人一人を、共にいて支えてくださるからです。

「わたしは主をたたえます。

 主はわたしの思いを励まし

 わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

 わたしは絶えず主に相対しています。

 主は右にいまし

 わたしは揺らぐことがありません。

 わたしの心は喜び、魂は踊ります。

 からだは安心して憩(いこ)います。

 あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく

 あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

 命の道を教えてくださいます。

 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」


 最初に、主イエス・キリストが復活されたと告げました。そして、主の復活を告げる福音は、この主日礼拝のたびごとに伝えられて、礼拝をささげています。主が死からよみがえられたことを信じる者たちの礼拝は、主の復活の証人となっていく礼拝でもあるのです。ペトロたちのように、実際に肉眼で主イエスにお会いした私どもではありません。しかし、初代教会ではすぐに、復活された主に実際に会ったことがない人々によって信仰が継承されました。その信仰を支えてくださったのは、聖霊のお働きです。聖書の御言葉に伴う、聖霊のお働きによって、教会は復活された主イエスの証人となり続けてきたのです。

御言葉に伴う聖霊のお働きを思うときに、詩編16編11節の「命の道を教えてくださいます」という告白を、まさに、御言葉に伴う聖霊のお働きとして告白することができます。「命の道」と訳されている「命」は、主の復活の「命」に連なる「命」です。主は、礼拝のたびごとに、私どもに命の道を、主の復活の命に支えられる命の道を教えてくださるのではないでしょうか。

「命の道」と訳されている「道」は、興味深いことに、一般的に道という意味で用いられる「デレク」ではなく、細い道、小道の意味での「オラハ」が使われています。「オラハ」は人が通った跡(あと)、という意味もあるようです。私どもは、多くの信仰の先達たちの生きぬいた命の道を教えられています。それは大きな幸いではないでしょうか。私ども自身も、自分のような者も信じてついて行くことができるので、あなたも大丈夫です、と道を示すことができるのです。私どもが生きていく信仰の道は、命の道ですが、ときに細くなっていて、この世の一般的な道とは違うことがあるかもしれません。しかし、いかにその命の道が細くとも、主が共にいてくださるから、喜びをもって生きることができるのです。

「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」と神をたたえながら、共に生きていきましょう。



 
 
 

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