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2025年4月20日(日)イースター礼拝

復活節第1主日


礼拝説教「恐れることはない」   


願念 望 牧師

 

<聖書>

マタイによる福音書 28:1-10


<讃美歌>

(21)26,12,326,333,64,29

 

 イースターを祝うことができ、心から感謝して主の御名を賛美します。

 主イエスが復活なさった朝、二人の弟子たちがイエスが納められた墓に向かいました。マグダラのマリアともう一人のマリアです。もう一人というのは、「ヤコブの母マリア」(マルコ16:1)だったと言われます。私どもが仮にその時生きていたら、彼女たちのように行動したでしょうか。彼女たちにとって、大きな心配は、お墓の蓋をしている大きな石を、どうやってわきへ転がして中に入るかということでした。実際にエルサレムに行ったときに、当時のお墓を再現したような場所がありましたが、それは横穴式のもので、大人が手を広げても届かないような大きな円形の石が、立てかけるようにお墓をふさいでいました。お墓には、ローマの番兵がいたので、身の危険があったと思います。頼んでも石を横に転がしてはくれなかったでしょう。墓の石を取り除いて中に入るとは、自分たちの自由にならない、どうしようもないことでした。しかし、主イエスを愛する心の表れとして、当時の習慣ですが、せめてお身体をいたわって、香油をぬってさしあげたいと思ったのです。私どもも、自分ではどうしようもないと思うことがあるのではないでしょうか。

 二人の弟子たちは、自分たちのためではなく主イエスのために、番兵がいる危険を顧みずに出かけて行ったのです。私どもも、自分の利益のためではなく、主なる神のために労苦することがあるとすれば、それは決して空しく終わることはないのです。まさに、マリアたちがそうでした。復活された主イエス・キリストに出会ったのです。そのことは、思いもつかないことです。最初、天使たちから主イエスの復活を知らされたときに、「恐れながらも大いに喜び」(8)とある通り、余りの出来事に受けとめきれない思いがありました。受けとめきれないけれども、そこに神様から来る喜びがありました。

 「喜び」と訳されている聖書の原語は、「カラ」という言葉で、そこには、上から(神から)受けるもの(賜るもの)という意味があります。主なる神がお働きになるときに、そこには受けとめきれないものがあります。神から来る喜びもまたそうです。

 マリアたちは、神から来る喜びをはっきりと経験しました。それは、復活された主イエス・キリストが、出会ってくださり、彼らに分かるように挨拶してくださったからです。その挨拶のことばは、「おはよう」(9)と訳されています。この言葉は、原語では「カイレテ」という言葉で、「喜び」と訳される「カラ」と同じ言葉の成り立ちを持っています。神様から受けるもの、という意味合いを持っている挨拶の言葉です。ですから、どうしても日本語に訳すのは難しい言葉です。「喜ぶ」という意味合いが込められた挨拶の言葉だからです。

 主イエスがマリアたちに語りかけられた挨拶「カイレテ」は、「おめでとう」とか「万歳」とした方が、意味が近くなると思います。ある英語の聖書は、「喜びがあなたに」「平安があなたに」という意味に訳しています。

 私どもはイースターを祝うときに、「イースターおめでとうございます」と挨拶を交わします。その最初の挨拶は、主イエス・キリストから始めてくださったことは、大きな励ましではないでしょうか。どんなどうしようもないことがあるときにも、主イエスが私どもに、あなたに喜びがあるように、と挨拶してくださって、どうしようもないその先へと導いてくださるのです。

 主イエスのお墓に行ったマリアたちにとって、どうしようもないことは、墓の大きな石を動かすことでした。しかしもっと、人にとってどうしようもないことは、死というものを動かすことではないでしょうか。主イエスは死の重いふたを動かすようにして復活してくださいました。主イエスが死に際しても、死は主イエスにとって終わりではなく復活されました。そのことは、私どものどうしようもないことを主は動かすことができるお方だということです。

 主イエス・キリストはこの個所で、「恐れることはない。」(10)と語りかけておられます。「ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことができる。」とあるように、ガリラヤで主イエスに会うことによって、弟子たちは主の復活を信じて、恐れることなく生きるようになったのです。

 しかしマタイによる福音書が書かれたころは、この個所の弟子たちのように主イエスに会うことはできませんでした。しかし、恐れることなく生きていったのです。それは、主が共にいてくださったからです。それは、キリストの霊、聖霊として共にいてくださるということです。

 マタイによる福音書による福音書の終わりの言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20)とあります。これは、最初の1章の「神は我々と共におられる」(23)という言葉と響き合っています。挟み込まれていると言うことができます。「神は我々と共におられる」ことは、「インマヌエル」という言葉で言い表されますが、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ことが、主が「恐れることはない」と語りかけてくださる御言葉の中身です。

 主イエスが今もなお、恐れることはない、わたしがあなたがたと共にいるから、と語りかけてくださることを信じていきましょう。動かしがたい出来事や、どうしようもない思いに心がふさがれるときにこそ、主イエスの語りかけを思い起こしましょう。主は「恐れることはない」と言われて、私どもと共にいて、動かしがたいものを動かしてくださることを信じていきましょう。




 
 
 

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