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2025年4月13日(日)

受難節第6主日


 

礼拝説教「お救いください」   


願念 望 牧師

 

<聖書>

マタイによる福音書 21:1-11


<讃美歌>

(21)26,1,295,464,64,29

 

与えられている箇所で、主イエスが都のエルサレムに行かれて、ここから、主イエスの十字架の苦難と死、そして、復活の出来事が具体的に記されていきます。期間にすれば、わずか一週間ほどの間に起こったことが、実に丁寧に記されています。マタイによる福音書は28章ありますが、そのうちのおよそ8章分ですから、かなりな部分をあてているのです。

 マタイによる福音書では20章の終わり、直前の箇所で、目の見えなかった二人が、主イエスによって見えるようにしてもらったことが記されています。しかし、彼らは、その見えるようになった目をもって、「イエスに従った」(20:34)のです。私ども神を見る目を持っているとは言えないでしょう。神様が私どもの心の目を開いて、信仰の眼差しを与えてくださったことは、目の見えなかった人が見えるようになったことに重なるのです。すでに主イエスは、ご自身の道が、やがて、エルサレムへと至ることを知って歩んでおられました。そこで苦難を受けられて、死なれ、三日の後に復活されることを、道すがら、弟子たちに教えながらここまで来られたのです。

 そして、いよいよエルサレムに入られました。エルサレムに入城されたのです。

 エルサレムに入城されたとき、そこには、迎えた人々の期待がありました。また同時に、自らの道を進まれる、主イエスの思い、確信があったのです。ろばに乗られる姿にそれが現れているのですが、私どもは、救い主の道を歩まれる主イエスに思いを深め、改めて主イエスを私どもの教会の主としてお迎えしたいと願います。主イエスに従って生きる幸いを確かにされていきましょう。

 

 人々は、9節にあるように「ホサナ」(お救いください、の意味)と叫んで、主イエスを迎えました。それだけではなく、道に自分たちの着ている服を敷いて迎えたのです。人々は、身につけていた大切な上着を道に敷いたのです。

 またある者は、野原から葉の付いた枝を切ってきて道に敷きました。その枝は、なつめやしの枝であったとヨハネ福音書(12:13)は記しています。

 そのようにして、彼らは、主イエスを迎えました。それは、王を迎える迎え方であると言われます。当時人々が、主イエスに何を期待していたかということでは、ひとつには、自分たちを支配しているローマ帝国から解放してくれる、力強い王を求めていたと言われます。

 彼らは、「ホサナ」と叫びました。それは、「お救いください」「わたしたちに救いを」という意味です。人々の大きな声が9節に書かれています。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

同じ言葉が、詩編118編25~26節に記されています。

 「どうか主よ、わたしたちに救いを。・・・

  祝福あれ、主の御名によって来る人に。」この「わたしたちに救いを」は、原語でホサナです。この歌は、元々、エルサレムを巡礼する人々を、祭司がエルサレムから迎え出て歌った歌です。しかし主イエスが来られたとき、祭司は迎えてはいないのです。人々が迎えました。あるいは、主イエスと一緒にここまでやってきた人々が、エルサレムに入られたのを喜んで、王を迎えるように道に上着を敷いた。そして、「ホサナ」「わたしたちに救いを」「わたしたちをお救いください」と叫んだのです。

 しかし、当時人々が、どういう救いを望んでいたかが、問題であるのです。多くの人々は、これから主イエスが成し遂げようとされる、罪の赦しによる救いとは違う、政治的に国が独立するという意味での救いを期待していたと言われます。弟子たちもまた同じような、軍隊を率いてでも自分達を解放してくれる救い主を思い抱いていたと思われます。しかし弟子たちは、そのような、ずれた思いをやがて正されて、主イエスが誰であるか、はっきりと分かるときが与えられたのです。

 

 マタイによる福音書が私どもが手にしているように記されたのは、主イエスの十字架と復活の後です。ですから、ここに告白されている、「ホサナ」「わたしたちに救いを」という叫びは、依然としてずれた叫びではなく、自分たちの信仰の告白を重ね合わせて記しているのです。どういうことかと言いますと、マタイによる福音書を受けとった当時の教会が、今再び、主イエスを自分たちのまことの王として、教会に迎え直していると理解することができるのです。

 ここで、ある神学者の説教を思い起こします。そこには、主イエスが私どもの王として来てくださったということを、どれほどに受け入れて、歩んでいるかということです。私どもは、自分の人生は、いつも最終的な主権は、自分が握っていると思っているのではないか。主に従います、あるいは主の導きにゆだねますと言いながら、ゆだねるということを、ゆだねて主に従うということを、もともと私どもは知らないのではないか。神の主権に、自らをゆだねて従うことを、自然に元々できない私どもであるならば、主イエスに従うこともまた、教えられなければできないのです。

 そのように私どもが主イエスを王として受け入れ、そこに自分の存在をすべてゆだねて平安のうちに生きるためには、いったい主イエスがどのような王であるかを、知る必要があります。

 

 主イエスは、エルサレム入城に先立ち、弟子たちに、子ろば(2)を用意するようにお命じになります。子ろばとは言っても、人を乗せることができる、若いろばだと言われます。初めて人を乗せるような子ろばとも言われます。その時に弟子たちに、「主がお入り用なのです」(3)と言うようにお命じになります。主とは、神のことです。ここでは、主イエスは、自らのことを指して、「主」と呼んでおられます。

 「主がお入り用なのです。」と言われて、その時に、自分のろばを差し出すのは、まさに、主の主権のもとに従うこと、王なる主イエスに従うことであります。しかし、主イエスは、私どもから、奪い取る王ではないのです。

 「主がお入り用なのです。」という言葉には、「すぐ渡してくれる。」という言葉が続くのです。すぐに返してくださるということです。奪い取るためではなくて、むしろ、主をお乗せする、主のご用に用いられる幸いを与えるために、「主がお入り用なのです」と語りかけられてくださるのです。

 主イエスが、ここでろばに乗って入城されたことは、ゼカリヤ書9章9節に記されていることだと言われます。

「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

 見よ、あなたの王が来る。

 彼は神に従い、勝利を与えられた者

 高ぶることなく、ろばに乗って来る

 雌ろばの子であるろばに乗って。」

 なぜ、ろばに乗られる王が預言されているのでしょうか。通常、王が入城するときは、ろばには乗りません。馬にまたがるのが常です。馬というのは、戦いに出ていく軍馬です。ゼカリヤ書に預言されているのは、ろばに乗る平和の王の姿です。そんな王の姿を実際に人々が見たことはかつてなかったでしょう。ろばに乗って主イエスは、エルサレムに入られますが、馬が戦いを思い起こすのに対して、主イエスが乗られたろばは、ここに神の平和を象徴しているのです。

 主イエスは、世俗の王のように、戦いによって、平和をもたらそうとする王ではない。あるいはまた、力に対して、より大きな力を示して平和をもたらす王でもない。人々が、神との平和、罪の赦しによる、主イエスの和解の福音にあずかることによって、まことの平和をもたらす王であります。

 主イエスは、世俗の王のように力で人を支配するために来られたのではない。主イエスは、神の恵みによって支配し、私どもに、主に従う幸いを与えるために来られたのであります。主イエスが、恵みによって支配する王であることを知るときに、安心してゆだねることができます。むしろ、私どもの王として、教会の頭として、私どもを治めてください、と祈るのです。 

 先ほど、詩編118編にある、ホサナ「お救いください」という主なら神への叫びが、教会の祈りとして受け継がれていると言いました。そのホサナ「お救いください」という祈り共に、詩編118編には「苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。」(5)と告白されています。私どもは「苦難のはざまから主を呼び求める」ことができます。

 私どもは、礼拝で与えられる主イエスの御言葉の語りかけに導かれて、さまざまなことがある中にも「ホサナ」「私たちをお救いください。」と主イエスにゆだねつつ、主の導きに従って生きることができるのです。どのようなときにも、私どもを見捨てることなく覚えてくださる主イエスの、聖なる命とつながって生きることは、私どもの喜びです。主イエスとつながっている喜びは、いかなるものも誰も奪い取ることができないことを信じていきましょう。 



 
 
 

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