【受難節第4主日】
礼拝説教「神の証し」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネの手紙一 5:6-12
<讃美歌>
(21)26,17,300,303,65-2,29
今日与えられています箇所は、「この方は」と語り始めています。「この方」とはイエス・キリストのことですが、すぐ前の言葉を受けて語りかけています。3章5節「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」先週の礼拝で語ったことですが、「世に打ち勝つ」というのは、「罪に打ち勝つ」と言ってもいいのです。そのことは、主なる神が世にある悪しきものを終わりにしようと働きかけてくださっていることに仕えることでもあります。そのために、私どもが罪に勝利された主イエス・キリストを信じて、悪しきものに支配されることなく、神の恵みに支配されて生きることによって、その主の働きに仕えるのです。互いが受け入れ合って、神の愛に生きることが一人また一人と広がって、地に神の平和が、神の救いがどこまでも広がっていくことを私どもは祈っています。聖書が語ることは、悪はいつか終わりが来るということです。しかし神の愛は滅びることがない。そのことは、「世に打ち勝つ」ということでもあります。
「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とヨハネは語ったあとに、改めてイエスとはどのようなお方であるかを語りかけています。信じているお方、救い主のことをしっかりと知っていくことは、私どもの信仰を深めていくことになります。あるいは当時すでに間違った教えがあったのですが、救い主のことをしっかりと御言葉によって知っていくことは、間違った教えに惑わされないで、ふさわしく「イエスが神の子であると信じる」ことができるのです。
主イエス・キリストについて、6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。」とあります。「水と血を通って来られた」とは、どういうことでしょうか。そのすぐあとに、「水だけではなく、水と血によって来られたのです。」と「血によって」ということを重ねて書いて強調しています。さらには“霊”について、証しする方として「そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。」と語ります。水と血と“霊”について、カトリック教会でよく用いられているフランシスコ会訳には、こんな解説の注が書かれています。「『水』はヨルダン川でのイエスの洗礼、『血』は十字架上のイエスの死を指している。聖霊もキリストの本性を証明するもので、イエス受洗の時、この同じ聖霊が降り、イエスがメシアであることの徴(しるし)となっている。」
「イエスの洗礼」と聞くと、洗礼者と呼ばれたヨハネ(この手紙に名前が付されているヨハネとは別人)が、主イエスに洗礼を授けたことを知っている方もあるでしょう。しかし、そのときヨハネは最初、イエスに洗礼を授けることを拒みました。自分の方がイエス様から洗礼を授けてもらうべきなのに逆ではないかということです。しかし、主イエスは「我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)と言って、洗礼を受けられました。主イエスの洗礼は、私どもの一人となってくださったということです。洗礼を受けるということは、罪あるものが神に受け入れられ、神からの救いを受けて、その罪を赦されていくということです。主イエス・キリストは、罪なきお方であるのに、罪人のひとりに数えられることをふさわしいこととしてくださいました。ある意味で、ふさわしく洗礼を受けてくださった主イエス・キリストによって、私どもが受ける洗礼もまた、主なる神に受け入れられるのであります。私事ですが、今日3月30日は、50年前に小学5年生のときに洗礼を授けてもらった記念の日でもあります。
洗礼を受けたあと、いろんな方の、洗礼を受ける前のすばらしい経験談を聞くと、自分は不十分なままに洗礼を受けたのではないかと悩んだことがあります。しかしやがて、自分の悔い改めの心が当時とても不十分であっても、自分の悔い改めたことの積み重ねで救われるのではなく、主イエス・キリストが私どもに代わって神の裁きをその身に受けてくださったことによって救われるのだと、心から信じて安心するようになりました。
そのことを思い起こしますと、今日の箇所とつながってきます。「証し」という言葉が何度も使われています。9節には「人の証し」と「神の証し」という言葉があります。
「人の証し」というのは、証言という意味にもなります。裁判で、自分はこういうことを見聞きしました、という証言の意味で同時用いられた言葉です。しかし、教会では、「証し」という言葉を、信仰の経験談の意味で用いることがあります。本来、神様がこんな恵みをくださったと神をたたえる意味での経験談であるはずです。ただ、自分の自慢話になってしまうこともあるように思います。さらには、自分はこんなに悔い改めたから、救われているという意味での証しになると、そこにはキリストの救いの恵みは無くなって、自分のりっぱな信仰経験、悔い改めによって救われたということになるのですから、もはやその人の中に、神の恵みが失われていく危険があるのです。
ヨハネは、「神の証し」を強調しています。それは、父なる神が、神の独り子主イエス・キリストを世に遣わし、十字架に私どもの罪を裁き、死に渡されましたが、死は主イエス・キリストにとって終わりではなく、死から復活されて、救いとして生きておられるということです。そのことを、ヨハネは11節でこう語ります。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」
私どもに主なる神が永遠の命を与えられたことは、御子の内にある永遠の命とつながって生きるようになったということです。そのことは、「世に打ち勝つ」歩み、神の愛が地にあまねく広がること、悪に終わりが来ることを信じて、互いに神の愛に生きることを志して祈っていくことでもあります。また御子イエス・キリストと命がつながっていくことは、どんなにかそこに神の愛が働いているかを知っていくこと、すなわち、私どもがどれほど価値あるものとして主なる神が見てくださっているかを知り続けて、互いの存在を尊く見ていくことでもあります。
神の証しは、神の愛の証しではないでしょうか。それは、あなたのために、主が命をささげられたことであり、それほどに私ども一人一人を、かけがえのない者として見てくださっているのです。神の愛の証しは、神ご自身が今もなお、聖書の御言葉に伴う聖霊の働きとして語りかけておられるということです。これからも、神の愛の証しに祈りをもって心の思いを深め、信頼していきましょう。

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