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2025年3月2日(日)

shirasagichurch

降誕節第10主日

 

礼拝説教「すべてをご存じ」    


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 3:18-24


<讃美歌>

(21)26,3,54,432,65-2,29


今日の説教題は、「すべてをご存じ」としました。お気づきの方もあると思いますが、20節の言葉から取っています。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」神様が私どもの心よりも大きくて、すべてをご存じであることは、すぐに私どもの慰めや安心につながるでしょうか。すべてを知っておられることは、人には知られたくないような行いや思いもご存じであるということになります。しかしそれにも関わらず、ヨハネは確かに、主なる神がすべてをご存じであることを、喜びと感謝をもって記しています。

私はよく祈りの中で、「主よ、あなたはすべてをご存じです。」と祈ることがあります。それは、信頼の告白として祈っていますし、またそう祈るときに、安堵感、安心が与えられます。なぜ、私どもが「いっさいをご存じである主よ」と祈ることが、心を安心させることにつながるのでしょうか。20節に「心に責められるようなことがあろうとも」とあります。これは、直訳すると「心が責めるときにも」となり、「心」は良心と同じ意味で使われていますから、良心の呵責に責められるような、神様にお詫びしなければならないことが思い当たるときにも安心できる、ということです。

神様が私どもの心よりも大きくて、すべてをご存じであるにも関わらず、19節20節に「心に責められるようなことがあろうとも」「神の御前で安心できます」とあるのは、主なる神が、救い主である「神の子イエス・キリスト」(23)によって、私どもを赦して受け入れてくださるからです。その恵みを私どもは生涯を通して知り続けているのではないでしょうか。

主なる神が、救い主である「神の子イエス・キリスト」(23)によって、私どもを赦して受け入れてくださることを、19節に「行いをもって誠実に愛し合おう」とあることから思い浮かべたことがあります。それは、キリスト教会が昔から語り継いできた、救いの衣というものです。救いの衣を主イエス・キリストが与えてくださるということです。「行いをもって誠実に愛し合おう」という箇所は、「行いと誠実をもって愛し合おう」と訳すことができます。だれしも「行いと誠実」が大切であると分かっていても、行いと心の思いという誠実が、神様にすべて受け入れられるような人がいるでしょうか。だれしも欠けを持っていますが、主イエス・キリストの行いと誠実を私どもに着せてくださるのが、救いの衣ということです。それはあり得ないことですが、私どもに受ける資格がない恵みとして与えてくださるのです。ですから、すべてをご存じである神の御前で安心して、心を安んじることができるのです。

救いの衣を着せていただいた者たち、キリスト者が、着せていただいた衣にふさわしく、「行い」と「誠実」を求め続けていくのは当然のことでしょう。しかし、私どもの努力や心がけで続くものではありませんし、願って心がけてもできないこともあります。たとえば、人を赦していく誠実のことを考えても、私自身そうですが、人を赦して受け入れていく心の狭さをときどき痛感することがあります。しかし、主の祈りは、赦されたように人を赦します、と祈っていくよう主イエス・キリストが与えてくださいました。ある神学者が、赦せない思いをかかえるときにも、赦します、と主の祈りを続けることは、赦せますようにと祈っていることなのだと解説していて、私は大きな慰めを与えられました。それなら自分も祈り続けられる、祈り続けさせていただきたいと思いました。

さて18節と19節は、新共同訳聖書では行間がありますが、元々の聖書の原語には行間はなくてつながっています。「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」(19)とある、「真理」という言葉は、18節の「行いもって誠実に愛し合おう」とある「誠実」と原語では同じ言葉です。アレテイアという、真実とも訳される言葉ですが、「真実」アレテイアと聞いてまず思い浮かべるのは、言うまでもなく主イエス・キリストのことです。

ですから、行いと誠実をもって愛し合おう、とするときにも、その誠実のなかに、主イエス・キリストが着せてくださった誠実の衣から与えられるものがあるのです。キリストのアレテイア(真理、真実)に信頼して歩むときに、私どもに誠実が生み出されていくのです。「真理に属している」ということも、概念的なことではなく、むしろ真理である主イエス・キリストにつながって生きているということです。それは恵みとして与えられています。

ヨハネの手紙一は、もともと教会への手紙として書かれたものが、聖書の言葉になっています。しかし、考えてみれば、聖書は神様からの語りかけという意味での手紙ですから、ひとりひとりに宛てて、とくに教会に宛てて書かれた神様からの手紙として今もなお、神様の語りかけを聞くことができます。ヨハネは単なる手紙として当時の教会宛に書いたのではなく、神様からのメッセージを書いたのです。とくにそのメッセージ、語りかけは、福音のメッセージ、よい知らせとして書いています。よい知らせという意味合いは、たとえば3章11節にこうあります。「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」どこに福音のよい知らせの意味合いがあるかというと、「初めから聞いている教え」というところです。互いに愛し合うことは、よい知らせであるということは、その知らせに聞き従う者たちと共に、主なる神がいてくださり、そのよい知らせに生きられるように助けてくださるということです。

互いに愛し合うことは、努力目標でもなければ、単なる掟でもないということです。単なる掟ではないという意味は、23節を丁寧に聞き取るとよくわかります。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」「神の子イエス・キリストの名を信じ」とあるように、救い主である主イエス・キリストを信じていくところに、救い主の助けがあって、「互いに愛し合うこと」も実現していくということです。しかも、その掟は、福音の言葉、よい知らせであって、その掟に聞き従うことは恵みであって、恵みによって「互いに愛し合う」者たちとされたことを信じて、その恵みに生きていくのです。

神の恵みに生きて、互いに愛し合うことに生きるのは、喜ばしいことであることを、すでに教会生活の中で経験なさっている方もあると思います。互いを心にかけていくことは、人を人としてふさわしく生かしていくのではないでしょうか。

もちろん私どもは、互いを心におぼえて愛し合い、支え合うときに、自らの足らなさや心の狭さ、自己中心さを感じて、心に責められるようなことがあるかもしれません。「心に責められるようなことがあろうとも」(20)とあるように、すべてをご存じである主のもとで、私どもは赦しを願い、欠けを満たしていただいて、福音として語られている掟、「互いに愛し合う」ことに生きるのです。さらには、「心に責められることがなければ」(21)とあるように、互いに愛し合う掟に生きるときに、良心が私どもを責めることとは全く反対の、神の内にとどまる喜びが私どもを覆っていくのです。24節にあるように「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。」神様が、その人のうちにとどまってくださることは、どのように分かるのでしょうか。24節は、続けて語ります。「神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった〝霊″によってわかります。」明らかに、聖霊のことが語られています。

福音のよい知らせである掟に生きて、互いに愛し合おうと生きるときに、聖霊もまた共に働かれて、私どもと共に神様がいてくださることを分からせてくださるのです。聖霊は、御言葉と共に働かれて、すべてをご存じである主の大きさを教え続けてくださるのです。漠然と、神様だから私どもの心よりもはるかに大きな御心を持っておられるというのではなくて、互いを心にかけて神の愛に生きようとする中で、神様の大きさ、偉大さを知り続けていく、その恵みの歩みを聖霊が支えてくださることを信じ味わっていきましょう。すべてをご存じである主よ、私どもを憐れみ、神様の愛に生かしてください、と聖霊の助けを信じて祈り続けていきましょう。



 
 

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