2025年3月23日(日)
- shirasagichurch
- 3月23日
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【受難節第3主日】
礼拝説教「神を愛するとは」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネの手紙一 5:1-5
<讃美歌>
(21)26,16,301,471,65-2,29
今日与えられています箇所は「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」(1)と語り始めています。「メシア」とは、救い主の意味ですが、旧約聖書の時代から長い年月にわたって待ち望まれていました。旧約聖書の言葉をカタカナ表記でメシアと訳していますが、イエスがあの待望していたメシア(救い主)であると信じる人々とは別に、それを否定して信じない人々がいました。
しかし、ヨハネの教会の者たちや当時の初代教会の人々が、イエスがメシアであると信じることができていても、それは自分たちから生まれた信仰ではなくて、主なる神から与えられたものであるので、「神から生まれた者です」と語ります。さらにこの告白は、救い主を信じる信仰が神様から与えられたことを言っているだけではなく、キリスト者の存在が神様から生まれたことを告白しています。ヨハネによる福音書3章の有名な出来事を思い起こします。
ニコデモという、当時のユダヤ社会の議員が夜に主イエスをたずねたことが記されています。議員というのは、おそらくサンヘドリンというユダヤ最高議会のメンバーだったと言われます。そのような有名人が昼間にイエスをたずねると、うわさになってしまうので夜たずねたのでしょう。そのときに、主イエスはニコデモに言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)「神の国を見る」というのは、主イエスの救いを受けることですが、「新たに生まれなければ」と主イエスが語りかけられたことと、今日の箇所で「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」という告白がつながります。
ヨハネによる福音書では、新しく生まれることについて主イエスが、「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(5)と言われています。「水と霊によって」ということを、教会は洗礼の「水」と、そのときに与えられる聖霊のことだと理解してきました。洗礼を受けることは、そこに聖霊を与えられて、神によって新しく生まれるのです。それは感覚で確かめられることではなくて、信じて受けとめることです。
ニコデモは主イエスに最初にお会いしたときに、そこでは信じることができなかったようです。しかし後に、サンヘドリンでイエスを裁いて十字架に架けて処刑しようという議論のときに、彼はイエスをかばう発言をしています。(7:51)また、主イエスが十字架に命をささげられた時に、ニコデモは主イエスのお身体を引き受けることに同行して、お身体をいたわる香油のようなものを持って行ったのです。(19:39)そのことは、ニコデモにやがて信仰が生まれたことを表しています。主イエスを信じることと、その教えに従ってついて行くことは一つのことですが、従っていく中で、信じる信仰がはっきりしてくることもあるのです。
信じることと、神に従うことは一つのことだと言いましたが、今日の箇所にも、神の掟に従うことが語りかけられています。その掟は、3章23節にすでにはっきり述べられていました。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」その掟を今日の箇所では「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」と語っています。
神を愛して信仰を抱いて生きることはまた、その教えに従って、仲間を受け入れて愛することと全く一つだということです。そしてそのように生きることが、「世に打ち勝つ」ことだというのが、この個所で強調されていることです。「世に打ち勝つ」とはどういうことでしょうか。
聖書の言葉を聞くとき、同じ言葉、たとえば「世」という言葉を聞いても、イメージすることがそれぞれ違っているのではないでしょうか。とくに「世に打ち勝つ」と聞くと、この世のすべてが否定されているように思われるかもしれません。しかしヨハネの手紙一では、「世」という言葉を、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」(2:16)というように、悪しきものがある世という意味で使ってきました。ですから、世に打ち勝つとは、世にある悪しきものに打ち勝つということですし、それは、罪から離れて、神に近づき続けることです。その意味では、私どもは、世にある悪しきものとは無関係ではなく、誘惑に負けることもあるのではないでしょうか。
ある神学者は、世に打ち勝つとは、自分に勝つこと、自分の罪深さに勝つことでもあると言いました。この個所は、前の箇所とつながっています。直前の4章の終わりに、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。」(20)とあります。ですからその言葉とのつながりを考えれば、自分に勝つことは、仲間を憎む心に勝って、互いに愛し合うことにほかなりません。
しかし、そのような自分に勝つことがとても難しいことを、経験なさった方も多いのではないでしょうか。自分に勝つことが難しいことを思うそこでこそ、私どもは、「生んでくださった方」を仰いでいくのです。5節にヨハネは確信を込めて語りかけています。「だれが世に打ち勝つか。イエスを神の子であると信じるものではありませんか。」
ここに語られていることは、狭い話ではなく、壮大な神の平和が見据えられています。世にある悪しきものが支配することの悲惨や、悲しみ、苦悩を少しでも知っている者は、そこから解かれて、神の恵みに生きていくことがどんなに地に平和をもたらすかを信じて祈っていくのです。「だれが世に打ち勝つか。イエスを神の子であると信じるものではありませんか。」という告白に生きることは、まさに世にある悪しきものを神と共に滅ぼしていく道に生きることです。それは、祈りによって、神を愛し、互いを愛していく思いが地にあまねく広がる希望に生きていくことでもあることを信じていきましょう。

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