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2025年3月16日(日)

shirasagichurch

受難節第2主日

 

礼拝説教「神は愛です」    


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 4:7-21


<讃美歌>

(21)26,11,297,484,65-2,29


「愛する者たち」(7)とヨハネは語りかけています。この語りかけは、手紙の中で特別に大切なことを語るときに用いられていると言われます。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」とあるように、愛し合う、その愛は神の愛によってということです。このことがずれると、愛し合うことの中身が、聖書の語ることと全くずれてしまうことになります。

今日与えられています箇所は、愛の神学と呼ぶ神学者もいますが、10節には、「ここに愛があります。」と神の愛の中身を語っています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(10)「罪を償ういけにえ」とは、私どもが自分の罪のために神様から裁けるべきその裁きを主イエスが代わりに受けてくださったということです。18節に。「恐れは罰を伴い」とあるように、神の裁きを恐れることを語りますが、その裁きを表す「罰」という言葉は、新約聖書でほとんど用いられない言葉です。敢えて用いているのは、神の愛が強く語られているこの個所で、神の裁きによって受けるものを主が代わって受けてくださったから、もはや神の裁きを恐れることなくなっていることw語っているのです。

ある英語の聖書は「罪を償ういけにえ」を「罪を贖(あがな)う犠牲」という意味に訳しています。「贖う」という言葉は、旧約聖書から来ていますが、元々は「買い戻す」という意味があります。どういうときに用いた言葉かというと、ある人が借金のために土地を手放さなくてはならなくなったときに、その親族や仲間がお金を出し合って「買い戻す」ようにしたのを、「贖う」と言ったのです。ですから、「贖う」という言葉には、「買い戻す」という意味があり、主イエスが罪を贖う犠牲を十字架の上でささげてくださったのは、私どもの人生を買い戻してくださったのだと言うことができます。

そのように、主イエス・キリストが私どもを愛してくださった愛によって、互いに愛し合うことは、当然のことながら互いが主イエス・キリストを信じて、神の愛によって共に生きることであるのです。もちろん、互いを大切に思って祈りをもって支え合い、裁くのではなく赦し合い、受け入れ合って生きることが言われているでしょう。しかしその思いの中心に、神の愛が生きていなければ、それはここで「愛する者たち」と語りかけられている「互いに愛し合う」ことにはならないでしょう。

ひとつのカギになるのは、12節の言葉です。「いまだかつて神を見たものはいません。」これは、礼拝につながる言葉です。礼拝は、神に出会うときですが、実際に肉眼で神を見るように見た人はいないでしょう。しかし、神の愛に生きるときに、神の愛に生きようと祈り励むときに、それは神に近づき、目には見えないけれども、主なる神に出会っていくことになるのです。「いまだかつて神を見たものはいません。」に続いて「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内に全う(まっとう)されるのです。」とあります。ある神学者は、このように今日の箇所の説教で語っています。

「愛する者たち、互いに愛し合おうではないか」ということは、「さあ、神を知ろう、神を礼拝しよう」ということと同じことであります。・・・「さあ、神を知ろう」「互いに愛し合おう」これは、ひとつのことであります。「神のみ前に出よう」「共に愛し合おう」これはひとつのことであります。

ヨハネの教会が、その仲間同士が、この手紙を互いにやりとりする中で、神の愛の手紙によって、神の愛に生かされ支え合っていったのです。神の聖霊の働きによって書かれた、神の愛の手紙の言葉は、神の愛が現実となって互いに届けられて助けられ、支えられていったのではないでしょうか。

ですから、「互いに愛し合いましょう」という御言葉を、互いがもっと支え合わなくてはという意味でのみとらえて、礼拝で神に近づくことと切り離すと御言葉からずれていくのです。むしろ、主なる神に近づこうと、共に祈り支え合って生きることは、互いに愛し合っていることそのものです。そこから、互いが祈りにおぼえていくことが生まれていきます。

ある神学者は、現代の私どもが、互いに手紙を書くような心を失いかけていて、心が硬く硬直しているのではないかと語ります。その意味では、私どもが教会生活の中で、短くても手紙だったり、手紙に相当する言葉のやりとりが与えられていることは感謝なことです。さらには、互いが言葉をやりとりする心を生かすものが、神に近づき続けようとする礼拝から与えられている神の愛であることを深く教えられます。

ヨハネは、「神は愛です。」(16)と神をたたえて、力強く語りかけます。その力強さは、彼らが礼拝によって味わい、知り続けたこと、神が愛であるということから来ています。

どうか、私どもも、ヨハネの教会にならって、「神は愛です。」と語り続けていきましょう。「愛にとどまる人は」とある「愛」は「神の愛」のことです。「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」そのことなくして、「互いに愛し合う」ことはできないのです。愛にとどまることは、礼拝にとどまることでもあります。なぜなら、聖書は全体として、主イエス・キリストの救いを語り、その救いは神が愛であることを語り続けているからです。神の愛を語り続ける聖書を語る礼拝にとどまることは、神の愛にとどまって、互いに愛し合うことがすでに始まっていることを信じていきましょう。




 
 

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