2025年2月2日(日)
- shirasagichurch
- 2月2日
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【降誕節第6主日】
礼拝説教「イエスが救い主」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネの手紙一 2:8-27
<讃美歌>
(21)25,2,211,79,393,64,29
今日与えられています箇所は、18節で「子供たち、終わりの時が来ています。」と語りかけています。「子供たち」とヨハネが教会の者たちに呼びかけているのは、親が子どもを思うような無償の愛で、教会の仲間を愛しているからです。無償の愛は、聖書ではアガペーという言葉が使われることがありますが、それは報いを期待しない、与えつくす神の愛とも言われます。ですから、ヨハネは与えつくす神の愛に動かされて、教会の仲間に「終わりの時が来ています」と深い思いをもって語りかけています。この語りかけは、元々は神様の思いから出ている言葉ですから、私どもにも神様から「子供たちよ。終わりの時が来ています。」と語りかけられているのです。ご一緒に、主なる神の語りかけに心を傾けていきましょう。
「終わりの時」と聞くと、どう思われるでしょうか。ある方は、「終わりの時」は、この世の終わりと思われるかもしれません。確かに聖書は、天地万物を主なる神が創造されたことを伝えたときに、この見える世界は、いつまでも続くものではないことを語っています。しかし見える世界に終わりがあったとしても、いつまでも神と共に続く、見えない世界があることも、聖書は語りかけています。たとえば、コリントの信徒への手紙一の13章13節にこうあります。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」「いつまでも残る」というのは、主なる神と共に「いつまでも残る」ということです。「その中で最も大いなるものは、愛である」とあるように、ここで言う愛とは、神の愛であって、神の愛に生きるときに、そのような歩みに生きる道は、終わりがない、滅びないということです。もっと言うなら、この地上での歩みで終わることがない、天にある住まいでも続くということです。
ヨハネ福音書の17章3節に、有名な御言葉が記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」いつまでも残る神の愛、そのものである主イエス・キリストを知って生きることは、その信仰の歩みに、すでに神の永遠が宿っているということです。
先ほど、「この地上での歩みで終わることがない、天にある住まい」があることを語ったときに、ある方は「わたしたちの国籍は天にある」(口語訳、フィリピ3:20)という御言葉を思い起こされたかもしれません。私どもはそれぞれ地上での住所、所属する国があったとしても、最終的には神に属する者として生きている、そのことを「終わりの時」という言葉と共に思い起こす必要があります。
フィリピ3章20節は新共同訳では「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」と記されています。主イエス・キリストが再び来られることを、初代教会の者たちは、すぐにでも起こることとして待っていました。私は「主イエス・キリストが救い主として来られる」とある、「救い主として」という言葉に心がとまりました。
使徒信条に、再び来られる主イエス・キリストが告白されています。「かしこより来(きた)りて生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。」この言葉を聞くと、審くお方として主イエス・キリストが来られることが語られているように思います。確かにそうですが、主イエス・キリストが来られるのは、「救い主」として来られるためです。審くお方として来られるのはその通りですが、断罪してそれで終わりではなくて、神の義はまた、そこに救いという恵みをもたらす働きがあります。ですから、審くお方であり、救い主でもあるのです。このことは、私どもの小さな頭ではとらえきれないものです。いずれにしても、「終わりの時」は、「主イエス・キリストが救い主として来られる」時として、希望をもって待ち望むことができるのです。
さて、「救い主」という言葉は、フィリピ3章20節では、ソーテリアという言葉ですが、当時、「救い主」という意味で、メシアという言葉が用いられていました。それは、旧約聖書に約束された「救い主」ということです。その「救い主」は、言うまでもなく主イエス・キリストのことですが、「キリスト」とは、救い主を意味する言葉です。「キリスト」とは、旧約聖書の言葉で「メシア」となります。ですから、「イエス・キリスト」という言葉は、「イエスがキリスト」「イエスが救い主」という、とても短い信仰告白の言葉ともなっているのです。
今日与えられています箇所は、「反キリスト」について語ります。この言葉は、イエスがキリストであることを否定する者という意味ですが、同時に、自分がイエスに代わって、キリスト(救い主)であることを語る偽り者という意味でもあります。22節に「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。」と記されています。当時、26節にあるように「惑わせようとしている者たち」がいたようです。しかし、それはいつの時代にもあることで、「終わりの時」において気を付けるべきことであるのです。惑わされないようにするには、どうすればいいのでしょうか。
ヨハネは、27節で語っています。「しかし、あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。」このことは、キリスト者が洗礼を受けたときに与えられる聖霊のことだと言われます。聖霊は、キリストの霊、神の霊とも呼ばれますが、主の御言葉と共に働いて、私どもに御言葉を悟り、信じることができるようにしてくださるのです。目には見えない主イエスが、私どもと共に生きてくださることと信じていいと思います。「だれからも教えを受ける必要がありません」というのは、自分の頭でいつも考えたらいいということではありません。「教えられた通り、御子の内にとどまりなさい。」とあるように、聖書の御言葉に聞き従って生きることが、惑わされない真実な道であるのです。
こんな話を聞いたことがあります。それは、美術品の本物と贋作(偽物)を見分ける人を育てるときに、どうするかという話です。それは、来る日も来る日もただひたすら、本物ばかり見せるそうです。敵の手の内を知る意味では、どんな贋作があるかを見せて、本物と見比べさせるのかというと、そうではなくて、ひたすら本物に触れさせ続けることをする。そうすると、やがて偽物をみたときに、はっきりとこれは本物ではないと見抜くことができるというのです。
ヨハネもまた、教会の仲間に、聖霊の働きによって、それは神の愛の働きによってということですが、主の本物の御言葉を語り続けました。そのことはまた、キリスト教会が受け継いでいることでもあります。私どもは、礼拝において、聖書の御言葉を共に聞くことをもって礼拝のときとしています。それは「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」との語られていることに生き続けているということです。
礼拝において、ただひたすら聖書の御言葉を共に聞くことをもって礼拝のときといることはまた、「終わりの時」に生きて、救い主として主イエス・キリスト来られる希望に生きているということです。私どもの歩みには、いつも希望が伴っていて、それは神の愛に支えられて尽きることがありません。そこに主なる神を信じて生きていく信仰が、与えられ続けるからです。
どうか、「終わりの時」は、主イエスが救い主として、救いをもたらしてくださるときでもあることを信じて生きていきましょう。私どもが抱いている希望に生きる仲間が与えられるように、祈りつつ、いつも主の御言葉に聞き従っていきましょう。

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