【降誕節第9主日】
礼拝説教「愛を知りました」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネの手紙一 3:11-18
<讃美歌>
(21)25,15,156,483,64,29
今日の説教題は、「愛を知りました」としました。これは、3章16節の御言葉から取っています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(3:16)「愛」と訳されている言葉は、神の愛という意味で用いられる、アガペーという言葉です。無償の愛、とか報いを期待しない愛とか言われますが、実際に神の愛そのものである主イエス・キリストが、どのように歩まれたかによって、まさに「愛」を知ることができます。
実は、ヨハネの手紙一の3章16節は、もう一つの3章16節と呼ばれることがあります。では元の3章16節、今日の箇所とよく似ている3章16節は、ヨハネによる福音書の3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ある神学者が聖書の中の聖書と言ったほどに教会で愛され、愛唱されてきました。しかし、ヨハネの手紙一の3章16節は、それほどには愛唱されてこなかったように思います。ひとつには、「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」とあるので、自分は教会の仲間のために命を捨てるほどに愛しているだろうかと、思うからではないか。実際に、命をささげることだけがここで言われているのでしょうか。もちろん、実際に命をささげることを含んでいるでしょうが、自己犠牲という、仲間のことを思って仕えていることの意味合いで命を捨てることが語られているはずです。しかし、実際に命をささげることでは確かに、迫害の時代を約300年も生きぬいた初代教会からは始まるキリスト教会の歴史では、仲間のために命をささげて殉教した人々は数知れないものがあります。殉教した人々は、自分の信仰を守り抜く点で命をささげたでしょうが、同時に、仲間を守るためにも、まず自分が矢面に立って、あえて迫害を受けて命をささげた人々も数知れないのではないでしょうか。
しかしいわゆる迫害の時代に翻弄されていない者たちは、「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」という語りかけをどう聞くのでしょうか。「だから」とあるので、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。」という御言葉をしっかりと心に刻む必要があります。みなさんの中には、「命を捨ててくださいました」とあるけれども、なぜ「命をささげてくださいました」ではないのだろうか、と思われる方があるかもしれません。これは、明らかにヨハネによる福音書10章11節とつながっていると言われます。そこには、主イエスの御言葉が記されていいます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」ことは、具体的には十字架に命をささげてくださったことです。私どもが本来受けるべき神の審きを主イエスが代わりに受けてくださったことにより、私どもが神様に罪を赦されて救われる道が開かれたということです。
尊い命をささげられた主イエスとは対照的に、「愛」に生きることをしなかった、カインの話が記されています。創世記4章にある、人類最初の殺人の記事と言われる物語です。今でも、カインとアベルの話は、よくわからない点がありますが、弟のアベルを殺してしまった「カインのようになってはなりません」(12)とあるのは、すべての人が聞くべき神の愛の語りかけです。11節にある、「互いに愛し合うこと」と全く正反対のことです。しかし実際に殺人を犯したこともないし、そのようにはならないだろうから「カインのようになってはなりません」という御言葉を真剣に受け止める必要がないでしょうか。一つの鍵になるのは、15節の「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」という語りかけです。
十戒の学びを入門講座でしています。「殺してはならない」という十戒の教えは、実際に殺人を犯さなかったら、その教えを守っているというものではないのです。相手の存在を消すような思い、たとえば、あの人がいなくなってくれればいいのにという、ある人がいなければ自分はもっと違う幸いを味わっていたはずだと思うような、相手を憎む思いは、殺人として戒められているということです。ある神学者の解説では、実際に殺人を犯さなくても、それに至るような思いを殺人の根と呼んでいるのです。
「互いに愛し合うこと」(11)をヨハネは語るのですが、そのときに、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(3:16)とあるように、ヨハネもまた主イエスによって「愛」を知り、「互いに愛し合うこと」を「初めから聞いている教え」として語っています。では、主イエスからヨハネの教会の者たちは、どのように愛を知ったのでしょうか。それは弟を殺してしまったカインとは全く対照的に、最後まで弟子たちを愛しぬかれた主イエスから愛を知ったのです。ヨハネによる福音書13章には、十字架を目前に控えた最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗う姿が記されています。そこにいた弟子たちの中には、裏切りの思いを抱いていた、イスカリオテのユダもいました。またほかの弟子たちも、主イエスが十字架に架けられたときに、逃げ去ってしまったのです。そのような弟子たちのことをすべてご存じであった主イエスが弟子たちを憎むどころか、最後まで愛しぬかれたことに、ヨハネは愛を知ったのです。
その神の愛に、今も教会は動かされているから、生きることができるのです。18節に「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」とあります。すばらしい翻訳ですが、「行いをもって誠実に愛し合おう」という箇所は直訳しますと、「行いと真実をもって愛し合おう」となります。直訳の方が、「真実をもって」とありますので、神の真実である主イエスが私どもを動かしてくださることがよく表れるように思います。
行いと真実をもって愛し合うことは、17節を受けています。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」「世の富」の「富」という言葉は、「生活物資」というような意味です。ですから、生きてくための物資をそれぞれ持っているのですから、互いの必要に心を砕いていくことは、ある意味で当然のことかもしれません。「同情しない」というのは、「憐れみの思いを閉ざす」という意味で、神が憐れんでくださるときに、その「はらわた」(内臓)が痛むような思いで心にかけてくださる、神の憐れみに共に生きることが語られています。ですから、互いに助け合いことの意味合いの中に、神の憐れみの心、神の愛に互いが動かされていくよう祈り願うことが、私どもに必要だということです。そのことは、神の愛がとどまる幸いがあるのですから、なおさら祈り願うことが勧められているのです。
神の憐れみは、内臓が痛むような思いだと言いました。元々はもっと強い意味合いがあって、内臓が裂けるような痛みをもって、私どもを神様が御心にとめてくださるということです。それはまさに、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」という救い主の歩みに表された神の愛ではないでしょうか。ヨハネによる福音書13章に記されている洗足の場面で、主イエスはご自身の存在が深く痛む思いをもって弟子たちを愛しぬかれ、彼らの足を洗われたのではないかと思います。そのような神の愛、主イエスの真実が今もなお教会に与えられ、私どもが動かされていることを信じていきましょう。
私どもが行いと真実をもって互いに愛し合うことが、神の愛がとどまっていることを世に示していくことになることを信じて、神の愛と真実を祈り求めていきましょう。

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