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2025年2月16日(日)

shirasagichurch

降誕節第8主日

 

礼拝説教「神の種が人のうちに」     


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 3:4-10


<讃美歌>

(21)25,10,53,476,64,29


聖書には、すぐには理解できないような個所もあります。いったい、自分は与えられている御言葉のどこに立ったらいいのかすぐに捉えにくいことがあるということです。たとえば9節です。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人のうちにいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」この御御言葉をすぐに、自分のことだと自分の立ち位置を定めることができるでしょうか。御言葉をふさわしく聞き取ろうとするときに、まず考えるべきことがあります。

聖書には元々、節や章の区分がありません。ですから、前後の節とつながっていることをときどき思い起こす必要があります。今日与えられています箇所は、直前の3節には、「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」とあります。「この望み」というのは、「御子に似た者となる」望みです。やがての日に、あるいはこの地上の生涯を終えたときにと言っていいのですが、御子である主イエス・キリストに似たものとなる希望に来ているキリスト者は、「御子が清いように、自分を清めます」とあるのは、罪から離れるという意味ですし、より積極的には、神の愛に生きるということです。そのことは、今日の箇所のすぐあとの11節につながります。「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」ですから、今日の箇所は、「御子が清いように、自分を清めます」という言葉と「互いに愛し合うこと」という言葉に挟み込まれるようにして語りかけられています。

なぜこのようなことをお話しするのかと言いますと、「御子が清いように、自分を清めます」という言葉と「互いに愛し合うこと」という言葉をしっかり聞き取るように今日の箇所を捉える必要があるからです。

自分が今どこにいるか、わからなくなった経験があるでしょうか。自分の居場所は住所で言い表せますが、見ず知らずの場所では住所自体が分かりません。自分の居場所を知るように、聖書で語られていることの意味を見失わないために、その前後にどのような御言葉が語られて挟み込まれているかは大切なことです。

先ほど、聖書には、すぐには理解できないような個所もありますと言いました。いったい、自分は与えられている御言葉のどこに立ったらいいのかすぐに捉えにくいことがあるということです。9節の「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人のうちにいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」という御御言葉をどう受け止めることができるでしょうか。もちろん、主イエス・キリストにあてはめれば、神からお生まれになった神の独り子である主イエスが、罪を犯すことがないのは信じることができます。5節にも「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。」と記されています。

しかしヨハネは教会の者たちに、愛をこめて「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人のうちにいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」と語りかけました。「神の種」という言葉は、ヨハネの手紙一にしか用いられていません。「神の種」という表現は、ひとつには、聖霊と理解されます。神の霊、聖霊が洗礼を受けたときに、キリスト者に与えられ、それは主なる神が目には見えませんが共に生きてくださることでもあります。そして、聖書の御言葉と共に働かれて、御言葉を私どもに悟らせ、救い主である主イエスを信じる信仰を与えてくださるのです。また、「神の種」は、聖霊が御言葉と共に働かれる、御言葉の「種」と理解することもできます。しかし、「神の種」である御言葉が、キリスト者の内に与えられ、聖霊が共に働いてくださることを信じていても、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人のうちにいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」と告白できるでしょうか。

先ほど、今日の箇所は、「御子が清いように、自分を清めます」という言葉と「互いに愛し合うこと」という言葉に挟み込まれるようにして語りかけられています、と言いました。ですから、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。・・・この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」という言葉を、「御子が清いように、自分を清めます」という言葉と「互いに愛し合うこと」という言葉に言い換えれば理解しやすいかもしれません。しかし、はっきり「罪を犯しません」「罪を犯すことができません」と語られているのです。

なぜすぐに理解しづらいかと言いますと、すでにヨハネの手紙一で語られている御言葉とうまくつながらないからです。2章1-2節には「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

結論から言いますと、2章1-2節とは、別々のことが語られているのではないのです。むしろ、主日の度毎に、礼拝において罪を告白し、主の罪の赦しを信じて生きている私どもがまた、「罪を犯しません」「罪を犯すことができません」という告白に立っていくということです。二律背反のように、同時には成立できない矛盾のように思われるかもしれません。しかし、このように受けとめることができます。

ある神学者は、「御子が罪を取り除くために現れました」(5)とあるように、私どもが救われて神の子とされるということは、罪が取り除かれ、罪を犯すことができない者とされたのだというのです。そのことは、時を超えて終末の救いの完成を先取りするような恵みに立っていくことであります。時を超えて、主の恵みに立っていくことでは、旧約聖書の言葉の特徴を思い起こします。

それは、旧約聖書のヘブライ語では、預言者的完了と言ったりしますが、将来のことであるのに、完了形ですでに起こったこととして書かれることが多いことです。ヨハネが教会の者たちに、今現在、罪を犯さないように手紙を書き送りながら、もし犯してしまうなら、それで終わりではなくて、主イエス・キリストの愛に立って、罪を赦してくださる恵みを信じていくように書きました。しかし同時に、罪を犯すことが当然のことではなくて、自らを清めていくことを心がけ、また仲間を愛してくことに生きることを心から勧めたのです。そしてさらに、自分たちが受けている救いの恵みは、すでに罪を取り除かれ、罪を犯すことができないように、まったく罪と切り離され、愛の神に結びあわされているのだと力強く語りかけたのです。書きながら、ヨハネたちは、先の書いたこととの矛盾を考えるよりも、もっと強く、恵みの確かさに望みをかけて言い切ったのだと思います。

ですから、10節でそのような恵みに生きることは、仲間を愛する歩みに現れることを思って、自分の仲間である兄弟を愛する者とされていることを信じて語りかけたのです。


ヨハネは8節で「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」と語ります。先ほどのお話しした、旧約聖書では将来のこともすでに起こったこととして書かれていることをヨハネも知っており、また神が時を超えて働いておられる理解に生きていたでしょう。ですから、悪しきものの働きが今なおあっても、主イエス・キリストがすでに悪しきものの働きを滅ぼしてくださったことを信じていくことができるのです。そのような望みに生きることができるのです。

主がすでに罪を全く滅ぼしてくださった恵みに、ヨハネの教会の者たちが望みをかけていったことに私どもも倣っていきましょう。そのことは、主が全く神の愛によって天を動かされるのと同じように、地の上になしてくださることを祈り求めていくことに仕えることでもあります。主がすでに罪を全く滅ぼしてくださった恵みに望みをかけていくしるしとして、私どもは、仲間を愛して受け入れていく恵みに生きていくのです。その幸いが地に広がるように祈り求めていきましょう。



 
 

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