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2025年1月5日(日)

降誕節第2主日

 

礼拝説教「初めからあったもの」      


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 1:1-4


<讃美歌>

(21)26,1,367,483,64,29


新年を主の恵みのうちに迎えることができ、感謝いたします。

今日から、新しい書簡、ヨハネの手紙一を学ぶことになります。なぜ、この書簡にしたかというのは、とても教会で愛されてきた書簡で、信仰の基礎をつくるのに有益な手紙だからです。洗礼を受けて間もない方や、洗礼を願って礼拝に集っている方たちだけでなく、すでに何年も教会生活を過ごしている方たちも初心に帰る意味で学んでいきましょう。

マルティン・ルターが、ヨハネの手紙一についてこのように語っています。

「これは傑出した一書簡である。同書簡は悩める心を支えることができる。その上、同書簡にはヨハネ特有の文体と表現形式があり、非常に美しく、そして優しくキリストを実によく我々に描いてくれている。」(現代聖書註解)

 ルターが、「非常に美しく、そして優しくキリストを実によく我々に描いてくれている」と言ったことは、救い主であるキリストをよく知って信仰の基礎をつくるのに有益な手紙、という意味で理解することができます。

 この手紙は、ヨハネ福音書と共通した文体や表現形式があると古くから理解され、伝統的には、ヨハネ福音書の同じ著者、使徒ヨハネが書いたとされてきました。その理解には、もちろん議論がありますが、ヨハネやヨハネの弟子たちが書いたと受けとめることができます。誰が書いたかという議論を突き詰めるよりも、そこに語りかけられている言葉を素直に信じて、私どもの魂の糧とすることが必要です。ルターが「悩める心を支えることができる」と言ったことは、信仰を抱いて礼拝に集っている人々を指していたはずです。信仰を持ったら、悩みが無くなるのではありません。むしろ、主なる神様がこの世をご覧になって、心を悩ませるように関わってくださっているのですから、私どもも主と共に悩み祈っていくのではないでしょうか。その悩める心をこの手紙は支えることができるのです。さらには、私どもは信仰生活の中で迷い、さまざまに自らの至らなさや思いがけないことに出会って悩むのですから、どのようにこの手紙が語りかけているのか、期待して心を傾けてまいりましょう。

 ヨハネの手紙一は、「初めからあったもの」と最初に語りかけます。この言葉を聞いたときに、教会の者たちはヨハネによる福音書の冒頭の、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という語りかけを思い起こしました。この語りかけは、明らかに主イエス・キリストのことです。「初めに」というのは天地創造の「初め」ですし、そこにあった「言」は、父なる神と共にあり、神であったというのは、私どもが信じている三位一体の神の姿であります。

 この手紙もまた、「初めからあったもの」と語りかけたあと、「すなわち、命の言について。」と言います。神である「言」、主イエス・キリストは、私どもの「命の言」である。それは、救いの命を与える「言」として、私どものところに来てくださり、共に生きてくだったのです。ですから「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの。よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」と語りかけます。

 ヨハネたちは、単なる知識ではなくて、実際に自分たちが見聞きし、経験した救いを、喜びと感謝をもって記しています。「命の言」について、2節で注釈が入ります。「-この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。-」

 「わたしたちに現れたこの永遠の命」とあるので、「命の言」の「命」は、永遠の命の意味だと理解することができます。「命の言」である主イエス・キリストは、永遠の命そのものであります。このお方、主なる神がどこまでもおられるので、私どもはいかなるときにも希望をもって聞き従い、ついて行くことができるのです。

 そして、主なる神に希望をもって聞き従い、ついて行こうとするときに、私どもは決してひとりではついていくことができない、そのために、ヨハネたちは「わたしたちとの交わりを持つようになるためです」(3)と語ります。「わたしたちとの交わり」とは、どのようなものでしょうか。互いの情報交換や、仲良くなることを考えられるかもしれません。互いに言葉を交わしていくことだと理解するかもしれません。しかしここでは、不思議な言葉で解説されています。

 「わたしたちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」この言葉が指している具体的なことは、礼拝のことです。キリスト者の交わりは、互いに言葉を交わしていくことに先立って、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」すなわち礼拝であるのです。むしろ、こうして礼拝を共に献げていれば、互いの個人的な情報を何も知らずとも、深い主にある交わりに生きているということです。礼拝の交わりは、互いの情報を知り尽くしたような関係よりも、もっと深い関係に生きている、それは、中心に主なる神がいてくださるからです。

 「初めからあったもの」という言葉を聞くときに、教会は、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉と共に、聖書の冒頭の言葉を思い起こしてきました。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1章1節)天地の想像される前からおられた主なる神が、私どもと共に生きていくださることは、どんなに心強いことでしょうか。天地の想像される前からおられた主なる神が、私どもと共に生きていくださることを信じていくことによって、私どもの悩みが支えられるのではないでしょうか。

 私はときどき、信仰という名の自己中心に陥っていないか、問われることがあります。自己中心は、罪の本質だとも言われます。自己中心に生きることは、神を見上げて主なる神とつながって生きることからずれていきます。私どもの祈りは、まず自らの安定や家族が守られること、仲間の病気の癒しや慰めが中心になっているのではないでしょうか。もちろん、そのようなことを熱心に祈ることを、主なる神は喜んで受けとめ、祈りに応えてくださいます。しかし、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の中で祈ることは、私どもや仲間だけにはとどまらないのではないでしょうか。主なる神が、すべての者を心にとめてくださっているのですから、「御心が天で行われるとおり、地にも行われますように」と祈って従っていくのです。礼拝という、主なる神との交わりの中で、私どもの心も祈りも、主の御心に近づけられ、狭くなりがちで自己中心に向かうところから解き放たれていくのです。

 礼拝の恵みを、一言で語るのはむつかしいと思います。ただ、ヨハネたちは、礼拝の恵みを一言で語るように、こう語りかけます。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(4)

 教会生活のさまざまな出会いの中で、喜びが満ちあふれます。そのことを経験なさった方も多いでしょう。しかし、何よりも、私どもの喜びの源は、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」である礼拝です。人間的に喜びを見失うようなときにも、なおも喜びの源は主なる神にあり、神との交わりである礼拝に喜びの泉があります。

この年、どのように主が導いてくださるか期待して、礼拝から満ちあふれる喜びを生きていきましょう。



 
 
 

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