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2025年1月26日(日)

降誕節第5主日

 

礼拝説教「イエスの名によって」        


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 2:7-17


<讃美歌>

(21)26,12,476,183,64,29


今日与えられています箇所は、2章7節「愛する者たち」と語り始めています。ヨハネが教会の者たちを、「愛する者たち」と呼びかけているのは、主イエス・キリストの愛に動かされているからです。ヨハネの手紙一は、「愛の手紙」と呼ばれることがあります。それほどに、神の愛が語りかけられているからです。ですから、「愛する者たち」という言葉を、私どもは大切に聞き取る必要があります。

「愛する者たち」と呼びかけられたヨハネの教会の者たちは、「愛する者たち」と呼びかけられるだけではなくて、仲間を「愛する者たち」として生きていったはずです。ヨハネ先生から「愛する者たち」と語りかけられて、神の愛をその身に受けた人たちはまた、仲間を「愛する者たち」として、互いに愛し合う歩みを喜んで生きていったということです。

2章7節「愛する者たち、わたしたちがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。」ヨハネは聞く者たちが古くから聞いていた、基本中の基本の掟、主の御言葉の語りかけを思い起こさせているのですが、そのすぐあとに、8節「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。」と語りかけています。どういうことでしょうか。それは、主イエス・キリストを信じて、もう一度、既に聞いていた掟を受けとり直すということです。

3章23節にこうあります。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」


「互いに愛し合うことです」と言われたときに、私どもは心を大きく動かしていくでしょうか。あるいは、教会なのだから、それは当然のこととして、いまさら言われなくてもというふうに思われるでしょうか。少なくともヨハネは、古くから聞いていた、皆が当然のこととして知っていた掟を新しく、主イエス・キリストを信じて受けとり直す必要を強く感じていたのです。

「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように」というのは、どういうことでしょうか。「名を信じ」というのは、名前はその方の本質と本質から出てくる働きをも意味しますから、主イエス・キリストが神の愛そのものとしてどのように私どもに救いを与えてくださったか、そのすべてを信じてという意味にもなります。ですから、「この方が命じられたように」というのも、ただ命じられただけではなくて、愛の模範として私どもを愛しぬいてくださったその愛に動かされて「互いに愛し合うことです」と語りかけています。

互いに愛し合うことは、主イエスが歩まれたようにというと、とても大きなことですから、私はまだまだです、できていません、というのは簡単なことかもしれません。しかし、互いに愛し合うことは、すでに教会の中に与えられている恵みとして知る必要があるように思います。恵みですから、できていなくても、まだまだでも、そこへと動かしてくださる主の働きがあるということです。ヨハネもまた、できていない前提に立っているよりも、すでに動かされる恵みによって、ますます励むようという思いがあったのではないか。

私事ですが、耳の不調を感じて治療していますが、この度のことを通して、みなさんの祈り、あたたかな言葉を通して、「互いに愛し合うこと」の恵みを実感しています。そして、私自身も、病気の方や、不調をおぼえている方への思いを強くしていることは、主の恵みの働きだと信じています。

先週もある方のことが急に気になってお電話したのですが、留守電に祈りの思いをお話ししておきました。あとで、メールで感謝の返信があって励まされました。またあるときは、移動中にお電話で、病気のことをお伝えくださって、「先生、祈っていてください」と言われたのですが、あとで移動を終えてから、留守電にお祈りを録音しておきました。あとでその方からも、メールで感謝の返信があって励まされました。互いに愛し合うことは、互いに励まされ、互いに生かされることではないでしょうか。

さてヨハネは、互いに愛し合うことの反対のように、9節「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。」と語りかけます。その必要があったということでしょう。私どもはどうでしょうか。「互いに愛し合うこと」は「互いに赦し合う」ことではないでしょうか。

12節で「子たちよ」と語りかけられています。「愛する者たち」と同じ意味で、ヨハネは教会の者たちに、「子たちよ」とこう語りかけています。

「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって あなたがたの罪が赦されているからである。」「イエスの名によって あなたがたの罪が赦されている」ことと、「互いに愛し合うこと」はひとつのことです。

互いに愛し合うこと、という古くからの戒めはどこに書いてあるか、それはレビ記19章18節です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

この掟の言葉「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」が、抜き書きされて用いられるのですが、大切なのはその前に書かれていることです。17節「兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

憎しみや恨みを抱くようなところで、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と語りかけられていることが、受け止めるべき大切なところです。「わたしは主である」と結ばれているのは、主もまたそうなさるということではないでしょうか。狭い正義感で断罪するように戒めるのではなくて、そこに赦しを生み出すように諭して関わってくことは、和解の道に生きることです。主イエスこそがそうなさったではないでしょうか。復讐や恨みを当然抱くようなところで、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というのは、現実離れしているでしょうか。しかし、主イエスは、十字架の上で、御自身を十字架にかけた者たちへの赦しを祈られたことはまた、私どもに、神の愛に動かされる道が、いかに私どもを恨みや復讐から救っていくかを示しているのです。

17節に「世も世にある欲も、過ぎ去っていきます。」とあります。「世にある欲」は、16節には「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごり」とあります。過ぎ去っていき、私どもを生かさず、救わないものから自由にされて、神の恵み生かされることは、主イエス・キリストが与えてくださる救いです。


キリスト教会のことを、ある神学者は「愛の学校」と呼びました。学校は学ぶところですから、失敗や苦い経験があっても、まことの先生、主であるイエス・キリストに聞き従って、神の愛に生きる道を祈り求め続けていくのです。私どもは、神の愛の学校の生徒として、ひとりひとり祈りつつ、主の恵みによって学び続けていきましょう。



 
 
 

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