2025年1月19日(日)
- shirasagichurch
- 1月19日
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【降誕節第4主日】
礼拝説教「神の愛が実現する」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネの手紙一 2:1-6
<讃美歌>
(21)26,9,54,481,64,29
今日与えられています箇所は、2章1節「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と語りかけています。「わたしの子たちよ」というのは、ヨハネがまるで神様の思いを代弁するように、教会の者たちを愛して、「わたしの子たちよ」と呼びかけているのです。神様は、私どもを愛して導いてくださるときに、もっともふさわしい歩みに生きることを心から願っておられるのではないでしょうか。そのふさわしい歩みは「罪を犯さないように」生きることだというのです。「罪を犯さないように」とは、もっと積極的な言い方をすれば、主イエスが生きられたように私どもも生きることであります。そのことを6節で「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」と語っています。
「イエスが歩まれたように」ということは、当然のことながら罪を犯さない道に生きられたことは言うまでもないことですが、もっと積極的には、5節にあるように「神の愛が実現」する歩みを生きぬかれたのです。主イエス・キリストが歩まれたように、「神の愛が実現する」歩みとは、どのようなものでしょうか。ご一緒に思いを深めていきましょう。
今日与えられています箇所は、2章1節「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と語りかけています。しかしそのすぐあとに、どうしても罪を犯してしまう私どもへの語りかけが続きます。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2節この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」
主イエス・キリストが私どもの弁護者であって、罪を償ういけにえとは、どういうことでしょうか。主イエスが弁護者というのは、私どもを赦してください、と執り成して神の裁きを逃れさせてくださるということです。そのことが実現するのは、主イエス御自らが、罪を償ういけにえ(ささげもの)となってくださったからです。これは十字架のうえにささげられた命の犠牲を示しています。その命のささげものによって私どもが罪を赦されることを、教会は絶えず信じて告白してきました。礼拝ごとに感謝をもって告白して神をたたえ、主イエス・キリストの救い、罪を赦される救いを信じ続けてきたのです。
主イエス・キリストがそのように私どもの罪のために執り成して、赦してくださることを、ある神学者は、罪をすっかり覆ってくださることだと言いました。主イエス・キリストが私どもをすっかり覆ってくださるということは、神様の前に立ったとしても、そこには覆ってくださっている主イエス・キリストしか見えないことになります。
主イエスが私どもをご自身のもとに招いてくださることは、私どもを覆ってくださるためです。私どもの罪をあばいてさらすように明らかにするためではなく、覆ってくださって、共に神様の光の中に生かすためです。私はイメージするのですが、闇を光に変えてくださる主は、神様が覆ってくださった私どもの中身をも、光に変えることができるお方ではないでしょうか。
さて、ここでご一緒に思いめぐらせたいのですが、主イエスが私どもを覆ってくださるとすれば、主イエス・キリストが歩まれたように、「神の愛が実現する」歩みとは、どのようなものでしょうか。
私どもは、日頃の生活の中で、また教会生活の中で、果たして、人の罪や至らなさを覆う存在でしょうか。人を覆うように赦していくことは、主イエスが歩みまれたように歩むことを祈り求めていく以外には、私どもの中から元々生まれてこないように思います。
4節に「神の掟」とありますが、ここには具体的には書かれていません。少し読み進むと、3章23節にこうあります。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」
「互いに愛し合うこと」の掟、戒めに聞き従う中で、私どもは共に生きていくことを祈り求めている存在です。教会の仲間に加えられるということは、「互いに愛し合うこと」の掟、戒めに聞き従いたいと、共に生きていくことを祈り求めていくことです。
そして、「互いに愛し合うこと」の具体的な姿は、主イエスがそうなさったように、日頃の生活の中で、また教会生活の中で、人の罪や至らなさを覆う歩みに生きることです。
できているかと考えると、「主よ、憐れんでください」という祈りを思い起こして祈ります。この祈りは、愛の戒めを唱えるときに、主が憐れんでくださらなければ到底、なしえないことであるし、またなしえていたい自分を照らされて、愛に生きられるように願いながら、「主よ、憐れんでください」(キリエ・エレイソン)と告白する祈りです。
教会の礼拝の中で、愛の戒めを唱える教会もあります。たとえばマルコによる福音書12章29節以下にあります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」なぜそうするように命じられているのか、それは、主イエスがそうなさったように歩むためです。
主イエスがそうなさったように歩むことは、とてつもないことのようですが、実に素朴な主の御心によることです。それは、「あなたがたが罪を犯さないようになるためです」という御心です。消極的に、罪を犯さないようにしようと心がけて自分を言い聞かせることも、ときには必要かもしれません。しかしもっと積極的には、主イエスがそうなさったように、隣人の罪を覆うように「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに生きることは、私どもを主の御心の中に守り、支えていくことになるのです。神の愛を主イエス・キリストと共に実現することは、自分を生かすだけではなく、人を生かすことに仕えるのではないでしょうか。
考えてみますと、私自身思い返すことができるのですが、何度、自分の至らなさを覆ってもらう愛を受けて来たかと思います。それは神様からは数知れませんが、主にある仲間からも、何度も覆っていただいたからここに立つことができているのです。罪や至らなさを覆っていただいた者はまた、仲間のことを、隣人を覆っていく愛に生きるように召されています。
5節「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」
「これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります」とは、自分の中に神の愛が実現していることよりも、もっと大きな深い意味があります。神の愛そのものである、主イエス・キリスト、主なる神の内に私どもがいることが分かるというのです。
私どもがすっぽりと主イエス・キリストに覆われているということは、神の内にいることでもあるのではないでしょうか。礼拝堂の中にいることは、神の愛そのものである神様の内にいることだとイメージすることができます。
ヨハネたちは、とても力強く、全世界を主と共に見渡しながら語りかけます。2節「この方こそ、わたしたちの罪」と言ったあとにすぐ、「いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」です。全世界の罪を覆って、光に変えようと主が働いておられるのですから、私どももまた、愛の主の働きに仕えて、赦されたように赦す者と、覆われたように覆っていく者となりましょう。「主よ、憐れんでください」と祈りながら、愛の実現に生きていきましょう。

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