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2025年1月12日(日)成人祝福

降誕節第3主日

 

礼拝説教「光の中を歩むなら」       


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネの手紙一 1:5-10


<讃美歌>

(21)26,20,57,515,64,29


今日与えられています箇所は、5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」と語りかけています。ご一緒に、聖書の言葉を手でなぞるように触れて味わっていきたいと思います。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせ」とは、主イエス・キリストの救いを伝える福音のことですが、その福音、よい知らせをヨハネたちはまず、「神は光であり、神には闇が全くないということです」と語りかけます。私は、この御言葉を思いめぐらしたとき、心を打たれて、なかなか先に進めなくなりました。立ち尽くすような思いになったのです。それは、「神には闇が全くない」とは、神様は徹底的な全き光の存在であって、そのことは思いの及ばない、取られきれないところがあるからです。

私どもは、私自身そうですが、自分に暗い部分がないとは、到底言えません。神様に照らしていただいて、暗い所を光に変えていただく必要をいつも感じている者です。礼拝に集うということは、ある意味で、主なる神に照らしていただくことでもあります。

礼拝の中心におられる主なる神が、私どもを照らして、暗いところを明るくし、闇を光と変えてくださるのです。具体的には、聖書の御言葉と共に聖霊なる神が働いて、私どもを光の中に歩ませてくださるのです。

6節には、「わたしたちが、神との交わりをもっていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」とあります。このような言葉を聞きますと、闇の中を歩まないように一生懸命に気を付けないと、うそをついていることになってしまう、偽り者になってしまうと思われるかもしれません。もちろん、神との交わりに生きて、たえず光の中を歩むように心がけ、闇の行い、罪を犯さないように自覚的に心がけることは、神様が喜んでくださることです。しかし、もっと積極的に御言葉を受けとめるなら、礼拝に生きて、神との交わりに生きることは、闇の中から照らし出されて光におられる主と共に歩むのですから、もはや闇の中を歩むことはないということです。礼拝に集い、礼拝から始まって日ごとの生活をして、また礼拝に帰ってくることは、確かに光の中を歩んでいると信じていくことができるのです。むしろ、闇の中を歩めなくされた、そのように、救いを受けたと信じていくことができるのです。

では、光の中を歩んでいる確かさは、どこにあるのでしょうか。それは、主イエス・キリストによって、罪を赦されて生きる喜びの中で経験していく確かさです。7節「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」あらゆる罪を赦されることを、ここでは「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」と語ります。

「御子イエスの血によって」というのは、主イエス・キリストが救い主として、十字架の上で罪の裁きを私どもに代わって受けてくださった、その犠牲によって、罪を赦していただけるということです。「清められる」というのは、ある神学者は「罪が赦される」とほぼ同じ意味で、神との交わりにおける障害が取り除かれ、神との交わり、人間同士の本来あるべき「交わり」が可能な状態になることだと言います。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とは、現在形で書かれているので、現在もなお、たえず礼拝ごとに罪を清められ、あらゆる障害が取り除かれるように、御言葉の光を経験し続けていくのです。

「罪」という言葉は、日本語では、悪いことをするという意味をまず考えるかもしれません。しかし聖書では、「罪」は元々、的をはずしている、ずれているという意味合いで、神との関係が正しく結ばれていない、ずれているという意味です。聖書が語ることは、人は皆、神との関係がずれていて、救いを必要としている、罪人だということです。そのことは、人が自分で自覚できることではなくて、神様がご覧になったら、そのように罪があり救いを必要としている、というのですから、8節にあるように、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちに」はないのです。「自らを欺いており」というのは、自分で罪があるとわかっていてうそをついている、ということもあるでしょうが、たとえ、自分ではいっさい罪がない、人に迷惑をかけたこともないし、良心に恥じるようなことをした覚えがなくても、神様がご覧になったら、そうではないという意味でもあります。

こんな経験をなさった方もあるでしょう。部屋をきれいに掃除したつもりだったけれども、カーテンを開けて、明るい日差しの中で、ほこりがあることに気づくというものです。私事ですが、先日ドライブしたときに、天候が良かったので、車の運転席のガラスが光に照らされて、普段は気づかない汚れが気になったものです。

ガラスや部屋の汚れは、ふき取ることができますが、私どもの心の罪、魂のくもりをどうやって人は清めることができるでしょうか。神様の光に照らされて、心をきれいにしていただく必要を感じたとしても、自分ではうまくできことがあるのではないでしょうか。むしろ、自分でも見たくないような心の深い暗い部分を、私どもは知っていて、そこから自由にされること、闇からの救いを感じることがあるのではないでしょうか。

9節で、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」と語りかけています。「自分の罪を公に言い表す」というのは、人前で自分は罪を赦していただく必要がある者だと認めるということです。そのことは、礼拝の中で、司式者の罪を告白して赦しを願う祈りに「アーメン」と心を合わせることですし、説教の言葉を聞いて心を御言葉によって照らされて、神の赦しを信じていくことでもあります。礼拝を献げること自体が、神様の光のもとにひれ伏すことですから、「自分の罪を公に言い表す」ことになっているのです。

私は9節の言葉、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」という語りかけに立ちどまる思いがしました。「神は真実で正しい方ですから」ということと、「罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」というのは、常識的につながるだろうかと思ったからです。どういうことかと言いますと、私どもが人として抱く正しさは、そこに赦しを自然に生み出すだろうかと思ったからです。正義感にかられて人を裁いてしまって、あとで後悔したことが何度あったでしょうか。戦争が起こるのは、ある意味で、正しさと正しさのぶつかり合いではないでしょうか。私どもの正しさの中に、闇を抱えているのではないでしょうか。

しかし神の正しさは全く人の正しさとは違うのです。光からの光の正しさ、神の義は闇が全くなく、神の愛があり、神の義と愛はまったくひとつであって、「罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」とあるとおりです。

先ほど、罪が清められることと、罪が赦されることは、ほぼ同じ意味で語っていると言いましたが、「罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と語られていることでよくわかります。「不義」は罪と同じような意味ですが、具体的な罪と理解することもできます。

さて、最後にもう一度、繰り返すように語りますが、私どもが神の光の中を生きる幸い、喜びは、神の御言葉の光の中に生きることです。ですから、ヨハネたちは強い思いで語りかけます。10節「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者としることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」逆に言うなら、罪を告白して神の御言葉の光に身を置く礼拝を献げることは、神を真実なお方と信じて仰ぐことですし、神の言葉が私どもの内に光として、喜びとして与えられ続けているのです。神の御言葉を感謝して、喜びのうちに私たちの内に宿して生きていくことは、救い主である主イエス・キリストが私どもと共に生きてくださる恵みを生きることでもあります。

礼拝の恵みを語る御言葉を聞きましょう。7節「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」「互いに交わりを持ち」とあることの中に、神様に赦されたものがまた、人を赦して受け入れていく歩みが示されています。人と人との間を妨げているものを取り除こうと祈りつつ歩むことは、神様の深い御心に生きることではないでしょうか。



 
 
 

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