2025年12月21日(日)クリスマス礼拝
- shirasagichurch
- 8 時間前
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【待降節 第4主日】
礼拝説教 「祝福あれ」
願念 望 牧師
<聖書>
詩編118編22-26
<讃美歌>
(21)26,268,260,271,78,65-1,29
クリスマスの時季は、一年で一番夜が長いときです。これから、だんだん昼がながくなって、春へと向かっていくときに、クリスマスを祝っています。クリスマスの喜びと共に春へと向かうように、主なる神が私どもを導いてくださることを信じていきましょう。
このクリスマス礼拝に与えられています箇所は、詩編118編の言葉です。なぜ、救い主誕生の箇所ではないのかと思われるかもしれません。この詩編は、救い主が私どもに与えられることを預言している御言葉の一つです。詩編にはほかにも多くの箇所が新約聖書に引用されて、救い主の預言であることが知られています。そのなかでもとくに大切な詩編の一つです。
23節に「これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと」とあります。主なる神が、私どもの一人としてお生まれくださることは、まさに「主の御業」であって「わたしたちの目には驚くべきこと」です。とくにその救い主が、私どもに代わって犠牲のいのちをささげるためにお生まれくださったことはなおさらです。十字架に神の裁きをその身に受けて、犠牲のいのちをささげてくださったのですが、それはすぐには人に理解できないことだったのです。そのことを「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」(22)と語っています。
ここで言われている家は、石造りの家です。家を建てる者が、あまりにも硬くて削ることができないで捨てた石が、最後に土台の石となって、その家のすべてを支えた、そのように、主イエス・キリストは、人のすべてを支えてお救いくださる救い主であるということです。
教会の土台には、主イエス・キリストがおられることをいつも信じていきましょう。ある神学者は、土台に近づくほど、主イエス・キリストが近くなるという意味のことを言いました。それは、だれかのために働いて仕えていくようなことほど、主イエスに近づくということでしょう。さらには、自分のために苦労するよりも、だれかのために仲間のために労苦したり、祈ったりするときに、土台となってくださっている主なる神に近づき、恵みと喜びを経験するのです。クリスマスもまた、そのような、だれかのために、仲間のために労苦したり、祈ったりするときとなるよう、主が導いてくださるのです。ともすれば自分のことに終始して、利己的になる私どもを主が照らしてくださるのです。その主の光のもとで悔い改めましょう。だれかのために祈ることに、仲間や家族のために労苦することに主が喜びを与えてくださるなら、それは主の御業です。24節の言葉を共に告白することができるのです。
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」(24)
さらに「どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。」(25)と、神への叫び、祈りが記されています。
もとのヘブライ語で読むと「ホサナ」(ホシアーナー)という言葉があります。お救いくださいという意味です。これは、主イエスがエルサレムの町に入られたときに、人々が喜び迎えて「ホサナ」と叫んで迎えたのですが、そのことは詩編の言葉が成就した出来事であるのです。しかしそのあと、人々は自分たちの思い通りの者ではないこともあり、また当時の指導者が自分たちの立場を守るために十字架へと追いやっていきました。あんなに喜んで迎えたのにと思うと、悲しい出来事です。思い通りではないとは、軍隊を率いてローマ帝国から解放してくれる王のようではないということです。
しかし教会では、いま一度、まことの救い主として、喜んでお迎えし直して、そのことを繰り返してきました。それは、主の降誕の祝いにおいてもそうです。ですから主イエス・キリストを信じて、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と心から祈ることができるのです。「栄え」とは「救い」を言い直しているのですが、救いを求めて主のもとに来ることが、どんなに幸いなことであるか、私どもの求める「栄え」は、まず主の救い、神を知る喜びを求めていく中で、生きる必要もまた満たされていく、そのような「栄え」であるのです。
26節は「祝福あれ」という説教題の言葉が告白されています。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」この祝福を受けるべきお方は、主イエス・キリストであることを、新約聖書は告げています。先ほどお話しした、エルサレムの町へ入られたときの人々の叫びとして、四つの福音書すべてで記されています。
「祝福あれ、主の御名によって来る人に」と、主イエス・キリストを喜び迎えていくことは、まさにクリスマスの祝いの出来事です。主イエスこそが、「祝福」を受けるにふさわしいお方です。そのことは、主なる神を喜び、たたえていくことでもあります。神を喜び、たたえていくとき、主もまた、「祝福あれ、主の御名によって来る人に」と祝福してくださるのです。そのような主なる神とのつながりは、救い主が来られなければあり得なかったことです。さらに「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」と「あなたたちを祝福する」とあります。元々は祭司が語った言葉だと言われます。「わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」の「わたしたち」は祭司ということです。この祝福を教会が受け継いでいます。教会は「主の家」であって、主なる神が共に宿って生きてくださるのです。そして、私どもに与えられる、主の家からの祝福は、ここから広がっていく祝福でもあります。私どもを用いて、主の祝福を地にいきわたらせてくださる一歩一歩にしてくださるのです。
118編全体は、はじめと結びが同じ言葉で囲まれています。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」感謝する、という「ヤダ―」という言葉は、神に告白するという意味があり、感謝する、ざんげする、賛美するとも訳されます。主なる神への告白、感謝とざんげと賛美に生きることは、春を迎えた喜びにたとえられる信仰生活の喜びです。
クリスマスの時季はここから春へと向かうと言いました。春をもたらそうと主なる神が、ひとりひとりに、この時代に働きかけてくださることを信じていきましょう。





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