top of page

2025年11月2日(日)召天者記念日礼拝

【降誕前 第8主日】


礼拝説教 「とこしえの喜び」


願念 望 牧師

 

<聖書>

詩編 16章7-11節


<讃美歌>

(21)26,382,385,493,65-1,27

召天者記念日礼拝をご一緒にささげています。日本基督教団では、毎年11月の第一主日を聖徒の日として、先に召された方々をおぼえて礼拝をささげています。なぜ11月の第一主日が聖徒の日なのかと言いますと、世界のキリスト教会にならっているからです。カトリック教会や聖公会が11月1日を諸聖人の日あるいは諸聖徒日としていることから、世界の諸教会と共に心を合わせているのです。

毎週の礼拝では、天と地がつながっていることを信じて、キリスト教会は祈りをささげ、神への賛美を歌い、主なる神様からの語りかけを聞いてきました。しかし、とくに召天者記念日礼拝において、先に天に召された仲間を思いながら、天での礼拝とこの地にある礼拝とがつながっていることを信じて、聖徒の日として礼拝をささげています。

礼拝において、召された家族や仲間を思い起こしておられることでしょう。何十年たっていても、昨日のことのように愛する者を思い返す方もあるのではないでしょうか。私事ですが、今年の6月に姫路にいる父が86歳で天に召されました。入院中に母が父に向って、「何かほしいものある?」とたずねると「みんなの顔」と言ったそうで、子どもたちや孫たち、ひ孫たちが会いに行きました。ただ、みなさんもご経験があるのではと思いますが、心残りがありますね。

もっとこうしてあげたら、という思いです。普段私は牧師として、ほんとうに心を尽くして寄り添ってこられた方から、もっとこうしてあげたら、という心残りを伺ってきました。どんなに尽くされても、尽くされたからこそ、もっとこうしてあげたら、という思いが残ることがあることをお伝えしてきましたが、その思いを神様のもとに持っていくことにしました。

 先ほど朗読した詩編16編に「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭(さと)してくださいます。」(7)とあります。自分でその心残りを埋めることができないときに、「主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭(さと)してくださいます。」と告白して祈ることができるのです。「夜ごと諭(さと)してくださいます」とあるように、詩編の信仰者は、夜ひとりになると心がうずくことがあったのかもしれません。さまざまな思いを主なる神のもとへと持っていく中で、諭(さと)され慰められてきたのです。

 「主はわたしの右にいまし わたしは揺らぐことはありません。」(8)とありますが、揺らがない人はいないのではないでしょうか。「主はわたしの右にいまし」とある「右」は力の象徴で、主なる神様が確かなお方であることを言い表しています。詩編の信仰者は、人として揺らぐ中で、確かなお方、主なる神に支えていただく喜びを知っていきました。

 ですから「わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩(いこ)います。」(9)と告白しているのです。これは、礼拝の恵みを言い表しているように思います。

 詩編は旧約聖書の中にありますが、新約聖書に救い主イエス・キリストことを語るときにしばしば引用されています。この16編もそうです。10節以下にこうあります。

「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく

 あなたの慈しみ生きる者に墓穴を見させず

 命の道を教えてくださいます。」 

 陰府というのは、死者の世界と考えられていましたが、主イエスが死から復活されたとき、この詩編の言葉が成就したと、新約聖書で引用(使徒言行録2:27、13:35)されています。私どもも、主イエス・キリストが死からよみがえられたことを信じて、自らのことを思い、愛する者を思って告白することができます。

「あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく

 あなたの慈しみ生きる者に墓穴を見させず

 命の道を教えてくださいます。」 

 「命の道」の道は、ヘブライ語で「オラハッ」という言葉で、一般的な道「デレク」に対して「細い道、人の通った跡」という意味合いがあります。ですから命の道は、人の通った跡にできる、細い道であって、死から復活された主イエス・キリストが命の道を切り開かれ、私どもにその道を教えてくださいます。また、天に召された愛する者たちが歩いた跡を思いながら、命の道を教えられることができるのです。

 最後に、詩編16編は、美しい告白で結ばれています。その詩編16編は「ミクタム」という表題がついているのですが、昔から意味がはっきりしません。しかし、「ミクタム」には「ケテム」という「金、金の飾り」という言葉が隠れていて、「最高に美しい詩」と理解する場合もあります。黄金の歌ということです。

 いずれにしても、詩編16編は、美しい告白で結ばれています。

「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

 右の御手(みて)から永遠の喜びをいただきます。」

 「わたしは御顔を仰いで」とあるように、礼拝の喜び、礼拝の恵みを歌った言葉として理解することができます。主なる神は、私どもの心と魂とからだの必要を満たしてくださるお方ですから、「わたしは御顔を仰いで満ち足り」と言い表すことができます。礼拝は、「喜び祝う」ときでもあります。それは、主が死から起き上がって復活されたからです。結びの「右の御手(みて)から永遠の喜びをいただきます」という言葉は、直訳すると「喜びが あなたの右手に 永遠に」です。

 「あなたの右手」は確かなお方、神の右手ですから、私どもを満たそうと働きかけてくださる主なる神から、いつも喜びが来るのです。私どもを満たそうと働きかけてくださる主なる神が今もなお、天において愛する者たちと共におられ、また私どもと共におられることを信じていきましょう。

ree

 
 
 

コメント


© 2023 by COMMUNITY CHURCH. Proudly created with Wix.com

bottom of page