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2025年11月23日(日)収穫感謝 謝恩日

【降誕前第5主日


礼拝説教 「神のまなざし」


願念 望 牧師

 

<聖書>

ヨハネによる福音書 5:41-47 


<讃美歌>

(21)26,10,51,456,65-1,27

 

  主イエスが人々に語りかけておられたとき、さまざまな人が周りにいました。旧約聖書の掟を破ったと思い込んで、また救い主だと信じられないので、主なる神を御自分の父と呼ぶイエスを殺そうと思っている人々がいました。しかし、彼らにも主イエスは語りかけていかれたのです。あるいは、長年病気であった人を安息日にいやされたことが、安息日にいやすことも働くことを禁じている掟を破ったことだと批判された、そもそもの騒動の始まりでした。まわりには、さまざまな必要を抱えていた人もいたでしょうし、どうイエスが対応していくか、興味本位の人もいたのではないか。

多くの人に囲まれて、主イエスは、「わたしは、人からの誉れ(ほまれ)は受けない。」(41)と語られました。何をお伝えになろうとしたのでしょうか。「誉れ(ほまれ)」と訳されているのは、原語でドクサという言葉で「栄光」という意味があります。「人からの誉れは受けない」と聞いて、どう思われるでしょうか。当時、聞いている人々は、人からの栄誉を求めない人がいるだろうかと思ったのではないか。私どもも、人にどう思われるか、全く関係なく生きていると言い切れる人がいるでしょうか。私もそうですが、人にどう思われるか、とても気になった経験をお持ちではないか。さらには、とても大きな困難を抱えて、どう解決していいかわからない問題であったりすると、親しい人であっても話すのをためいますし、まわりの人がどう受け止めるかを考えてしまいます。

主イエスもまた、御自身が人にどう思われているのか、よく知っておられたでしょう。しかし、人からの思いに支配されてはおられなかったのです。むしろ父なる神がどう思われているか、神の御心を行おうと生きぬいておられたはずです。ヨハネの教会は、主イエスが救い主として共に生きてくださることを信じて、神の御心に生きぬこうと祈り励んでいました。そのときに、人からの栄誉、人にどう思っているのか、そのことから自由にされていった。深い悲しみのときにも、どんなときにも、神に祈っていく幸いに生きていった。それは、神様はどう思って見ていてくださるか、神のまなざしに生きる喜びを与えられていったのです。すべてをご存知である主は、そのまなざしをもって私どもと共に生きてくださり、自分でも直視できないような思いや状況を見てくださって、私どもの心を定めて落ち着かせてくださるのです。どうか、私どもに命を授けてここに存在させ、また愛をもって導いてくださる神のまなざしに生きるよう、思いを深めていきましょう。

 「わたしは、人からの誉れ(ほまれ)は受けない」と語りかけられた主イエスは、人からの栄誉に生きる人々にこう語りかけられました。「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」(42)神への愛がないことで、人からの栄誉に支配されているのだと言われているように思えてしまいます。実は、「神への愛」と訳されている原語は、「神の愛」という言葉です。ですから、「しかし、あなたたちの内には神の愛がないことを、わたしは知っている」と語りかけられたのです。神の愛をその人の内に持っていないことを、主は問題視なさっているのです。

「あなたたちの内には神の愛がない」と言われた主イエスは、神の愛を持っておられた。神の愛を生きておられたし、神の愛そのものとして、御自身を分け与えるように、神の愛を人々に分け与えていこうとなさっていました。かつては、神の愛を持たずにいたヨハネの教会は、3章16節にある御言葉を生きていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 「あなたたちの内には神の愛がない」と主イエスから言われた人々は、何が決定的にずれていたのでしょうか。彼らは、旧約聖書の律法、神の掟に生きていました。それは、「モーセの書いたこと」(47)に従おうとして生きていたのです。彼らは、律法の中心的な中身、その本質をどう受け止めていたのでしょうか。もし聞き従うべき掟としてその本質を受けとめていたら、「あなたたちの内には神の愛がない」と言われていることになります。モーセが神から受け取って、人々に与えた律法は、神の愛から生まれたものだとすれば、そのことからずれていたのではないでしょうか。

 「あなたたちの内には神の愛がない」と言われた主イエスの御言葉を、ヨハネの教会は大切にしたと思います。心に書き記すように生きていったと思います。ある方は、そもそも教会が、「あなたたちの内には神の愛がない」と言われてしまったら終わりではないかと思われるかもしれません。しかし、教会は、赦された者たち、赦された罪人の群れですから、神の愛からずれていないか問われ続ける必要があるのです。神の愛とずれていくことは、神の愛がないことと等しいとも言えるのです。

私どもはもともと神の愛を持ち合わせていないし、生み出せないのですから、たえず神の愛とつながって生きる必要があるのです。神の愛とつながって生きることは、祈りによって、主の御言葉によって、聖霊の助けによって、共に礼拝生活によって与えられる恵みです。

 本日は、教会修養会がもたれます。この礼拝から始まっていると言うことができます。不思議に、教会修養会で取り上げられる今年度の主題、また聖句とつながる思いがします。年度主題聖句は、 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13章13節)です。年度目標は、「Faith・Hope・Love 痛みを抱(かか)えてこそ用いられる生きた石となる」です。「Faith(ふぇいす)・Hope(ほうぷ)・Love(らぶ)」は「信仰・希望・愛」の英語ですが、信仰や希望、愛の出発点を人の側に置くと、それはいつかはなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、「いつまでも残る」と言われる「信仰と、希望と、愛」の出どころは、神様にあるのです。愛の出どころは神様であって、神の愛であることはすぐにうなずかれるでしょう。しかし、信仰も、希望も、神様から与えられて、教会は信仰を継承してきましたし、人間的な希望を抱くことができないような困難なときに、なおも希望を抱いて祈り続けてきたのが、教会に与えられた神の恵みです。

年度目標の中に、「痛みを抱(かか)えてこそ」という言葉があります。おそらく、人には分からない、それぞれの痛み、悲しみ、生きていく上での必要、欠けがあると思います。そのすべてをご存知である主が、「信仰と、希望と、愛」に生かしてくださると信じていきましょう。「その中で最も大いなるものは、愛である」というのは、主イエス・キリストの命の犠牲なしには、神の愛がある信仰生活は実現しなかったからです。

「あなたたちの内には神の愛がない」と言われた主イエスは、御自身の御言葉をその身に引き受けてくださいました。十字架で、神の裁きをその身に受けてくださったのです。主は、いつまでも残る神の愛に私どもを生かして、信仰を与え、希望を与えて生かしてくださるのです。

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