2025年11月16日(日)
- shirasagichurch
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【降誕前第6主日】
礼拝説教「信仰による励まし」
柳田 洋夫 牧師(聖学院大学チャプレン・人文学部教授)
<聖書>
テサロニケの信徒への手紙一 3:1-13
<讃美歌>
(21)26,14,55,458,65-1,27
本日の説教題は、「信仰による励まし」としました。7節の、「あなたがたの信仰によって励まされました」というパウロの言葉によるものです。ここで、「あなたがたによって励まされた」と言っているのではなく、「あなたがたの『信仰』によって励まされた」と言われているところが印象的です。
果たして、人間が人間に、ほんとうの意味でパワーを与えることなどできるのだろうか、ほんとうの意味で人間が人間に励ましや慰めを与えることができるのでしょうか。一方ではイエスとも言えるし、ノーとも言えるのではないかと思います。イエス、というのは、少なくともある程度は、実際にそういうことはできる可能性はあるし、また、それは私たちの務めの一つでもあると思うからです。そして、ノー、というのは、この問いをきびしく問い詰めてみるとき、罪人が罪人を助けるということは究極的なところでは不可能であると言わざるをえないからです。私たちが何らかの慰めや励ましを誰かに示すことができるとするならば、それはあくまでも神さまを通して、神の愛を通して、そして、ともに愛の神に結ばされた者としてでなければ不可能なことです。だからこそ、パウロは「信仰によって」という言葉を外すことができなかったのだと思います。
また、9節には、「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています」とあります。ここでは、「神の御前で」という言葉が用いられています。喜びを共にできるのも、神の御前においてであるし、また、ほんとうに感謝をささげるべきなのは、神ご自身に対してです。なぜなら、神ご自身が、喜びにあふれる教会の源であり、また目的であるからです。
6節に、「うれしい知らせを伝えてくれました」という言葉があります。これは、以前の口語訳では、「吉報をもたらした」と訳されていました。もともとのギリシア語では、「福音を伝える」という意味の、エウアンゲリゾマイという言葉です。「福音」と言えば、普通は「キリストの福音」ということですが、人間同士のことに、この「福音」という言葉が用いられているのは、新約聖書においてこの一箇所だけだそうです。ということは、同労者テモテが伝えてくれた、テサロニケの教会の人々についてのうれしい知らせは、パウロにとって、キリストの福音に接することと同じ大きな喜びであったということになるでしょう。そして、教会の中に信仰と愛が生きていることは、最終的には神の御業であるゆえに、テサロニケの人々についての報告も、福音の大事な一部である、ということになるでしょう。
しかし一方、そのようなテサロニケの人々であっても、その信仰が完全なものであるというわけではありません。そもそも完全な信仰というものがあるとすれば、それは、イエス・キリストの神に対する信仰のみです。およそ人間である以上、その信仰は厳しい試練と誘惑に常にさらされ、「動揺」を経験せずにはいられないものです。だから、パウロは、10節にあるように、テサロニケの人々の信仰を喜びながらも、「あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と付け加えています。私たちの信仰生活や教会生活も同様であって、信仰と愛は常に試練にさらされているゆえに、そこに不安や不確かな思いが起こってきます。そして、そうであるからこそ、私たちは互いの欠けや不足を率直に認め合いながら、互いに祈りつつ支え合うべき者たちです。そして、ほんとうの教会の交わりというのも、そのようなところから生まれて来るものであるはずです。
さて、この手紙において、信仰・愛という言葉はあるが、希望という言葉はないではないか、と少々ひっかかりを感じておられる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
しかしパウロは、キリストに結ばれている者たちの希望とは何かを、祈りの最後の言葉においてはっきりと示しています。13節にこうあります。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」。キリストが再びこの世に戻って来られ、神の国がこの世に実現する、それがキリスト者の希望です。
私たちの人生と、また、大きく言えば、世界の歴史は、この世においてのみで完結するものではありません。この世を貫く神の救いの歴史があるからです。そして、神の救いの歴史とは、私たちのこの世における生と死、そして苦難を大きく超え包む働きでもあります。キリストの十字架と復活によってその救いの歴史が私たちにもたらされました。そして、再びキリストがこの世においでになり、神の愛と正義に満たされる「神の国」に私たちは入れられます。実にはっきりとした希望です。これでもまだぼんやりとしていると私たちが感じるとするならば、それは、まだ私たちのほうが信仰においてぼんやりしているからなのかもしれません。そうであるとすれば、来るべき神の国にふさわしいものとされるべく、しっかりと眼を覚まして歩むことができることをいっそう祈り求めなければならないでしょう。
希望ということでもう少し考えてみるならば、この日本の社会は、希望を見失いつつある状況にあると思いますが、このことに関連して、「希望学」という学問があります。たとえば東京大学のプロジェクトチームが、東日本大震災の被災地で実地調査を行って、その成果が本にもまとめられています。その本のタイトルは『〈持ち場〉の希望学』というものです。震災直後の困難な状況の中、被災地の人々がそれぞれの〈持ち場〉を必死に全うしようとしてきた、その〈持ち場〉意識こそが、震災直後の地域の崩壊をギリギリのところで食い止めてきたという内容の著作です。私が関わっている聖学院大学も、釜石でのボランティア活動を今でも続けておりますので、「希望学」にも多少なりとも興味がありますが、それはともかく、私たち教会の〈持ち場〉があるとすれば、それは、聖書に示されている希望をこの世に証しする、ということになると思います。そうであるとすれば、そのためにも、まず、教会に連なる私たち自身が、上よりの信仰・希望・愛、また、ほんとうの慰めと励ましについて味わい知る歩みをなしていきたいと思います。





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