2024年9月8日(日)
- shirasagichurch
- 2024年9月8日
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【聖霊降臨節第17主日】
礼拝説教)「深い嘆きの先に」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書22:47-62
<讃美歌>
(21)26,20,202,197,65-2,28
ペトロという主イエス・キリストの弟子が登場します。12使徒の一人で、弟子たちのリーダー的な存在です。ペトロという名は、岩という意味で、主イエスが名付けられました。
ペトロは初代教会の基礎を築いた弟子と言うことができます。彼は元々、ガリラヤの漁師でした。福音書が記されたときに、ペトロが見聞きし主イエスと共に経験した出来事が大きな貢献をしたと言われます。しかしそのようなペトロがなぜそこまで用いられたのか、その理由がはっきりしないのが正直なところです。ペトロが用いられた理由を、ペトロ自身の中になかなか見いだせないことは、私どもにとっては、大きな慰めになっています。
かつてペトロは、今日の箇所にあるように、三度主イエスを知らないと、その日のうちに言ってしまったのです。「その日のうちに」というのは、日が暮れて新しい日がはじまり、最後の晩餐を共にした、その日のうちにです。「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」(32)と主イエスから言われたペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33)と言い放ちました。しかし主イエスはペトロのすべてをご存じでした。そして、「鶏が鳴くまでに、(それはその日のうちに、朝が来るまでにという意味ですが)三度わたしを知らないと言うだろう」(34)と言われました。思いを込め、祈りをもって語りかけられたのです。
ペトロのように、覚悟していくことは大切です。私どもは、ペトロほどに覚悟したことがいつあったのかと問われています。しかしペトロの出来事が伝えることは、自分の覚悟といった自らの確かさに信仰生活をおいていくと、どこかで行き詰まってしまうということです。
先ほど言いましたように、ペトロはその日のうちに三度、イエスのことは知らない、仲間ではないと言ってしまいました。三度ということは、決定的な否定です。そのときペトロは「外に出て、激しく泣いた」(62)とあります。ペトロの涙は、どんな涙だったのでしょうか。自分のふがいなさに涙したことのある方は、ペトロに同情されるのではないでしょうか。なさけなくて仕方がないのです。
ペトロは自分のプライド、自信が傷ついて、悔しくて泣いていた。さらには主イエスを知らないと言ってしまった申し訳なさに涙したのではないでしょうか。
やがて主イエスの復活の後、ペトロは立ち直っていきました。それはペトロという弟子が復活したことに相当します。なぜペトロは、一度信仰が死んでしまったようなところから立ち上がることができたのか。それは主イエスの祈りがあったからです。その祈りのしるしとして、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61)からです。三度も知らないと言ってしまったときに、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」のです。その眼差しは、ペトロをなおも愛する眼差しではないでしょうか。
おそらくそのときペトロは、逃げ出したいほど、主イエスの眼差しが心に響いて涙せずにはいられなかったはずです。しかし涙するペトロの涙が、彼を立ち直らせたのではなかったようです。
主イエスが十字架にかけられたあと、墓に行った女性たちが、主は復活なさったと聞いても、ペトロはすぐには信じられなかった。そればかりか、故郷のガリラヤに帰って、漁師に戻っていったのです。あの涙はどこにいったのかと言われても仕方の無いようなところです。しかし主イエスはそんなペトロのところにまで行かれた。ペトロを弟子として復活させていかれたのです。
振り向いてペトロを見つめられたその眼差しは、その場だけでなく、ペトロの生涯を貫く主の眼差しとなっていったのです。ペトロは主を愛する恵みに生きていきました。
悔い改めるというのは、神へと向き直るという意味があります。しかし私どもの悔い改めに先立って、私どもの方へと「振り向いて」くださる主の愛の眼差しがあります。神の愛の眼差しが、私のような者にも向けられているので、悔い改めて、主なる神へと向き直り続けていくことができる。主よ、どうかお救いください、助けて導いてくださいと、心から祈ることができるのです。
三度も知らないというのは、決定的に否定することです。決定的に知らないと言ったペトロをさえ振り向いて見つめられた主イエスが、いまもなお教会の主として共に生きてくださっています。ペトロを振り向いて見つめられた主イエスは、祈る私どもを見ていてくださらないはずはないのです。祈りをもって礼拝を献げる私どもをしっかりと見つめてくださっています。
主の眼差しは、どのような眼差しでしょうか。主の眼差しは、愛する者を見て、すべてを知りつつも愛し、恵みの中で導いてくださる神の働きの眼差しです。つたなくとも、罪深くとも、主の眼差しに触れて、私どもは心から安心して祈り、赦しを信じて、主を愛する恵みに生きていきましょう。

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