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2024年9月29日(日)

聖霊降臨節第20主日

 

礼拝説教「強いられた恵み」          


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書23:13-27


<讃美歌>

(21)26,11,288,516,65-2,28

 

 どこにも持っていけないような思いを持つことがあります。理不尽なことに苦しむことがあります。理不尽な、不条理なことの原因や理由を到底見いだせないときに、どう受け止めているでしょうか。私自身の経験の中でも、相談を受けたり、つらく苦しい思いを話されるときに、祈るほかはない、とご一緒に祈ったことが幾たびもあります。祈るほかはないときに、主イエス・キリストご自身のことを想い起こして祈ります。

 

 主イエスはこの箇所で、十字架にかけられる裁判をピラトから受けておられます。ローマ帝国から遣わされた総督ピラトが裁判を行っているのですが、ピラトは三度にわたって、この男には死にあたるような罪を何ら見いだせないと言っています。

 

 「鞭で懲らしめて釈放しよう。」と持ちかけるのですが、民衆が騒いで言うことを聞かない。しかも、「バラバを釈放しろ。」と言うのです。祭りの度ごとに、囚人を一人釈放する慣わしがあったようですが、なぜバラバなのか、今でもよくわからないところがあります。革命家だったという話もありますが、確かではありません。結果的に、主イエスが十字架に追いやられることによって、バラバがゆるされたことになります。

 人々にも、弟子たちにも、到底分からなかった、十字架による救いがすでにはじまっていたのです。

 

イザヤ書53章12節後半にこのように記されています。

「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。

 多くの人の過ちを担い                      

 背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」

 この預言の言葉が、主イエスによって成就したのです。

 

 暴動と殺人の罪で捕らわれていたバラバが釈放されたことについて、カルヴァンはこんな意味のことを語っています。主イエスは最低の罪人よりもさらに罪深い者として審かれなさった。そこに立ってくださったのです。覚えのない苦しみの極みです。

 

 私ども教会は、主の十字架が私どもの救いであると信じている礼拝共同体であります。聖書が告げていることは、主が私どもの受けるべき審きを代わりに受けてくださったことにより、救いの道、赦しの道が開かれたことです。

 

 しかし決して忘れてはならないのは、主イエスの十字架は当たり前のことではないということです。理不尽きわまりないことで、いわれなき苦しみを担ってくださったのです。ですから主イエス・キリストは、私どもの担っているものが、いかなるものであったとしても、それを分かってくださり共にいてくださることができるのです。

 先ほど、祈るほかはないときに、主イエス・キリストご自身のことを想い起こすと言いました。

 

 主よ、どうしてですかと呻くようなとき、キリストの十字架を見上げていく中で、主が先立って私どもの誰よりも身に覚えのないものを担ってくださったことは、慰めとなるのです。

 

 主イエスが十字架へと向かわれているとき、ひとりの者がいわれのないものを担わされた。キレネ人のシモンです。十字架の刑場へと運ぶ十字架を、主イエスに代わって途中から担がされました。たまたま通りがかっただけかもしれませんし、興味本位で見ていたのかも知れません。

 彼の名前が残っているのは、後にキリスト者になったからだと言われます。有名な指導者になったという言い伝えもあるようです。

 

 おそらくキレネ人シモンは、生涯忘れることはなかったでしょうし、忘れられなかったはずです。キリスト者になったのなら、思いがけないことであったけれども、後に心から感謝したことでしょう。それによって、主の十字架の恵みを知る大きな助けとなったからです。強いられたことですが、シモンにとって大きな恵みとなりました。それは強いられた恵みです。

 

 シモンの担ったものは、それを担う理由が何もないものです。しかしそれによって、主が救いのために、あえて十字架を負ってくださった恵みを知ることができたのです。

 

 私どもも、生涯をかけても納得しきれない、理由を見いだせない痛みや苦しみを身に負うことがあります。その理由を見つけようとしても、益々深く沈み込んでしまうのです。しかしそのようなとき、主イエスの十字架の恵みを信じて見上げるとき、闇に光が差し込むのです。

 

 9月の最後の主日を迎えると、12月のクリスマスのときが近づいたことを感じます。クリスマスは、主イエスの誕生を祝い感謝するときです。

 しかし、その誕生を祝うときに、主が十字架のうえで命を献げられるためお生まれになったことを深く感謝しつつ祝うべきであります。

 それは、尊い献げものです。あり得ない恵みによる救いです。

 主イエスが私どもの救いのためにお生まれくださったことが、いかにあり得ない恵みであるかを、深く感謝していきましょう。主イエスの十字架の恵みを信じて見上げるとき、闇に光が差し込むのです。



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