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shirasagichurch

2024年9月22日(日)

聖霊降臨節第19主日

 

礼拝説教「沈黙による奇跡」          


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書23:1-12


<讃美歌>

(21)26,9,86,301,65-2,28

 

 再臨という言葉を、教会であまり使わなくなったと言われます。再臨とは、主イエス・キリストが再び地上に来てくださる時です。いつ主が再び来られて救いを完成してくださるか、私どもにはその日がいつかはわかりません。しかしやがて主にお会いする日が来るという意味では、誰しも天に召される時が来ます。その時に、時間を越えて、再び来られる再臨の主にお目にかかると信じていいと思います。私どもが、主なる神にお会いする日が来る、そのための準備ができているか考えますと、誰しも十分ではないかもしれません。しかし主にお会いする日が来ることを信じて生きていくことはどうしても必要なことです。

 やがての日のために準備することでは、主イエスこそがやがての日のために準備していかれました。それは生まれながらにして、救いのために命を献げる日々の積み重ねであったということです。主イエスが誕生されたクリスマスに、すでに十字架の道が始まっていました。主イエスが私どもに代わって苦しまれたことによって今あるを得ているのです。礼拝の恵みの時は、主イエスの十字架無しにはあり得なかったを信じて、与えられています箇所から、主の語りかけをご一緒に聞き取っていきましょう。

 

 主イエスがずっと準備して備えてこられたことは、この箇所によく現れています。そのしっかりとした主の平安は、少しも失われていないのです。いかに主の平安が確かなものであるかが明らかになっています。裁かれる理由がない裁判で、根も葉もないことで訴えられているのですから、いくらでも逃れることがおできになったはずです。しかし自己を弁護しようとはなさらず沈黙しておられるのです。なぜそんなに落ち着いていることができるのか。裁判の裁く側にいるピラトが不思議になり、落ち着かないで心がざわめいているように思われます。

 当時、ピラトは残虐な総督として有名だったようで、そのピラトでさえも、何とか十字架刑によって殺させないようにした。何ら罪を見いだせないと言ったのです。ヘロデも死に当たるとは思わなかった。

 ここで何が起こっているか、まわりにいた者たちは、弟子たちを含めて誰も理解できなかったでしょう。しかしあとになって、主の預言の御言葉が成就したことを知るのです。

 

 主の預言で代表的なのは、有名なイザヤ書53章です。そこに描かれている者は、黙って身をゆだね沈黙しているのです。主がなさることに身をゆだねている。まわりの者は、神に裁かれていると見なした。実際、十字架に殺されることは神に呪われて裁かれることです。そのような神の審きの十字架が、イザヤ書の告げることによれば、私どもの審きをその者に負わせて、私どもに赦しの道が開かれていったというのです。しかもその追いやられる者は、黙して自分を弁護することはしなかった。まさに今日の箇所にある主イエス・キリストの姿であります。

 

 なぜ主イエスはそのように沈黙なさりながら、その身をゆだねていかれ、神の平安そのものとして歩むことができたのか。もちろん神様だから、と言えるかも知れません。しかし私どもの一人となってお生まれくださったお方であって、ある意味で私どもと変わらない人としても生きられたのです。なぜ神の平安そのものとして生きることができたのか。その秘密は極められないかも知れない。しかし主はオリーブ山で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(22:42)「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスの祈りがその歩みを支えているのです。それは、私どもも同じように、主に祈って生きる恵みに生きるためです。「起きて祈っていなさい」と主イエスは言われました。

 

 かつて弟子たちが主イエスと舟に乗っているときに、嵐に遭い、弟子たちはおぼれるのではという恐怖に支配されました。しかし主イエスは弟子たちが心騒がせてもうだめかもと思った嵐のただ中で、眠っておられました。それは、いかなるものによっても奪われない平安を生きておられたからです。いや、主イエス・キリストは、神の平安そのものであるお方です。

 私どもは心騒ぎ、うろたえ、道を見失いそうになることがあるのではないでしょうか。しかし主イエスとつながって生きるときに、起きて祈っているときに、そこに神の平安を失わない恵みの道があるのです。起きて祈っていることは、信仰者ひとりひとりの日頃の生活をまず思い浮かべられるかもしれません。もちろん、ひとりひとりが日々の生活の中で、主イエスとつながって生きることは欠かすことができない恵みです。そのような危機感が薄れているのではととても悔い改めさせられています。しかし同時に、礼拝から始まる恵みこそが、起きて祈り、主イエスとつながって生きる教会生活の生命線ではないでしょうか。

 もう随分前ですが、牧師仲間と、ある修道院で説教の研修をしたことがあります。

 そこは、沈黙の修道院であって、カトリック教会の方たちがそこで過ごすときはひとつのルールがあるようです。朝起きて支度をし、礼拝を献げ、掃除をして食事をとるのですが、互いの会話をしない。沈黙する。神様に向かって祈り礼拝を献げる以外には、言葉を交わさないで沈黙するのです。そしてやがて夕食の時間になって初めて互いに言葉を交わす。修道院の方から、先生方はもちろんそうする必要はありませんと言われました。でも実際のことを思い浮かべると、それは深く主の前に沈黙して思いを主に向けていくことになるのではと思いました。その修道院での学びはよく集中できました。静かで余分な音が聞こえてこないこともあります。

 日頃の生活を考えますと、静まることがあまりにも乏しいのではないでしょうか。しかも静まって主に心を向けて思いを深めることが欠けているのではと思います。その欠けを満たしていただく必要があります。

 

 主イエスは弟子たちに「起きて祈っていなさい」と言われました。そのことは、主イエスが祈られたように、私どももまた祈ることがゆるされている恵みが与えられているということです。ボンヘッファーは、「詩編はイエス・キリストの祈祷書」と言ったそうです。確かに主イエスの祈りは詩編の言葉を用いておられることがあります。たとえば、主イエスが十字上で父なる神に祈られた告白「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(23:46)もそうです。(詩編31:6)

 礼拝では、交読で主に詩編を用います。それは詩編を通して祈りを与えられていくためでもあります。起きて祈るように、私どもを主が起こしてくださる。それは心を照らしてくださることによって祈りが与えられていくということです。そうして主が祈られたように、私どもも祈るためです。主イエスと共に祈る恵みが与えられています。この礼拝こそが、ごいっしょに主の御言葉に照らされて祈りに導かれるときです。祈りの恵みの中で静まって主に心を向けていく喜びに生きていきましょう。

 

 白鷺教会は、地域にある教会で、主を愛し、隣人を愛する神の愛を生きる、礼拝共同体です。しかしそのときに失ってはならないことは、ここにすでに主の教会が建てあげられて、恵みに生かされている主の働きを感謝することです。その主の恵みを感謝してたたずみ、共に喜んで楽しむことです。主の恵みにどっぷりとつかり、憩うことがゆるされている。主の恵みに向き直っていきたい。

 礼拝ごとに、共に恵みを感謝してたたずみ、共に喜ぶ時としましょう。そのような恵みにたたずむ礼拝から、教会のすべてがはじまっているのです。



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