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2024年9月1日(日)

聖霊降臨節第16主日

 

礼拝説教)「御心のままに」              


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書22:35-46


<讃美歌>

(21)26,4,210,469,65-2,28

 

 主イエスは弟子たちと過ごされた、最後の晩餐と呼ばれる食事の席でのしめくくりの会話が記されています。主イエスは35節で「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」と弟子たちに思い出させておられます。ガリラヤの春と呼ばれるときで、主イエスと弟子たちが働き始められたときで、何も不足はなかったのです。

 しかしそのときとは違います。ここで主イエスが語っておられることは、とても分かりづらいものです。「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」(36)とまで言われています。決して積極的な意味で言われているのではないはずですが、カギとなるのは「その人は犯罪人の一人に数えられた」(37))という言葉です。

 「その人は犯罪人の一人に数えられた」というのは、イザヤ書53章12節からの引用ですが、主イエスがイザヤ書の苦難のしもべの歌をご自身の苦難の預言として引用されたのは、ここだけです。それだけとても重要な言葉ですが、わかりづらく、つまずきにさえなるような箇所にかえって聞きもらせない語りかけがあるのです。

 「その人は犯罪人の一人に数えられた」というのは、主イエスが十字架の上で、私どもの一人として、罪人としての神の審きをその身に受けられようとしていることです。罪なきお方が、私どもに代わって審きを受けてくださったことで、それによって私どもが罪を赦されて救いを受ける道が開かれていったのです。しかしそのとき弟子たちは、主イエスを捨て、散らされていきました。弟子たちがふるいにかけられ、不信仰があらわになり、祈ることができないような闇に引き込まれていく、絶望のときがひととき弟子たちにおとずれたのです。そのことを主イエスは深い悲しみをもって語られました。十字架は、剣にかけられることでもあります。主イエスただお一人がその身に受けようとして、弟子たちを道ずれには決してなさらなかった。

 ですから、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とは、深い悲しみの言葉です。このとき、弟子たちには剣が二つありましたが、10人余りの弟子たちでは、二つあっても役には立たないでしょう。「それでよい」と言われた主イエスの言葉は、悲しみの言葉です。直前の箇所で主イエスがペトロに「わたしはあなたの信仰が無くならないように祈った」(32)と言われた祈りを込めて、弟子たちと過ごされているのです。

 最後の晩餐のあと、主はオリーブ山に行かれました。祈るためです。いつも祈る場所で、主イエスは十字架の苦難に向かっていかれました。オリーブ山のゲツセマネと呼ばれたところです。オリーブの産地である山にあるゲツセマネは、油しぼりという意味ですが、主イエスは自らの存在を絞り出すように祈られたのです。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(42)とさえ祈られました。さらに「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた。」(44)とあります。

 主イエスは、私どもの一人に数えられ、神の前に審かれ、退けられる者とされました。神の審きによって死ぬことが、どれほど恐ろしいことか、主イエス・キリストは、知り尽くしていかれました。そこに立つことは主イエス以外、誰もできない。主イエスは、私どもに代わって、ひとりの人として、死に直面していかれたのです。十字架の死のお苦しみがすでに、オリーブ山で始まっています。

 しかし主イエスはまことの人として、また、まことの神として「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42)と祈られました。

 

 さて弟子たちは、オリーブ山で主イエスから、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。しかし彼らは「悲しみの果てに眠り込んでいた。」のです。絶望をすでに経験し始めていました。祈ることができないでいた。それは大きな誘惑でありました。

 弟子たちはこのとき、誘惑を受けていることに気づいていないのです。誘惑を受けたらいつも気づくわけではない。むしろ、もっとも大きな誘惑は、誘惑に気づかないのです。その意味では、弟子たちはこのとき、もっとも大きな誘惑にさらされていました。

 

 そのような弟子たちを支えていったのは、主イエスの祈りです。「信仰が無くならないように祈った」主イエスの祈りです。信仰が無くなってしまうような、悲しみの果てに、なおも立ち直る道を主は備えていかれました。それは「起きて祈っていなさい」(46)という、主イエスの言葉が実現していったことでもあります。

 

 「起きて」という言葉は、「起き上がりなさい」と直訳できますが、復活するという意味の言葉です。時を超えて、すべてを見据えておられた主イエスが、やがて弟子たちの信仰が復活するように、絶望から希望に移されて主の救いを伝えることを見ておられたはずです。

 悲しみの果てに、祈ることができないというところから起き上がり、復活の命を受けて祈りなさいと弟子たちに命じられた、その御言葉がやがて実現していったのです。弟子たちは、主イエスの十字架の死と復活の後、まさに起き上がっていきました。復活された主から信仰を与えられて、祈りつつ、教会を建て上げていったのです。

「起きて祈っていなさい」の「起きて」とは復活するという意味があると言いましたが、元々は同じ言葉がもう一か所あります。ゲツセマネにおいて、「イエスが祈り終わってから立ち上がり」(45)とある「立ち上がる」と訳されている言葉ですが、これも復活するという意味の同じ言葉です。ルカは、オリーブ山で祈られた主イエスが、神の審きを受けて退けられる死を祈りの中で経験されたことを記しています。それと共に、祈り終わって立ち上がられる主イエスの姿に、すでに死から立ち上がられ復活された主イエスの姿を重ねて見ていたはずです。

 「御心のままになさってください」と父なる神にすべてをゆだねた主イエスが、やがて死からよみがえられたことをここに告げているのです。ルカが告げたことは、今に至っています。

 

 主イエスが祈られ、その身に受けてくださった犠牲によって、私どもに救いがもたらされ、絶望の闇が光となったのです。望みを抱いて祈ることができる信仰を、主が与えてくださったのです。それは神の御心のままに成し遂げられたことです。あり得ない恵みを感謝をもって受け取り、これからも主の恵みを礼拝からはじまって、共に宣べ伝えていきましょう。



 
 
 

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