2024年9月15日(日)敬老祝福式
- shirasagichurch
- 2024年9月15日
- 読了時間: 4分
【聖霊降臨節第18主日】
礼拝説教「ののしり返さず」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書22:63-71
<讃美歌>
(21)26,20,202,197,65-2,28
「メシア」という言葉の意味をご存知でしょうか。メシアは救い主という意味で旧約聖書の言葉をカタカナにしたものです。新約聖書の原語ではクリストスですが、それをキリストと訳しています。日本語訳で「メシア」としたのは、おそらく当時の人々が旧約聖書の「メシア」という言葉を使ったからだと思います。当時の人々や主イエスの敵対者たちが期待していたメシアは、主イエスご自身とは、全くかけ離れていました。人々は、軍隊という力を用いてでも、ローマから解放してくれるメシアを期待していました。しかし主イエスはそのようなメシアとなることを拒否されました。ですから、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい。」(67)と問われても、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」と言われたのです。
ルカによる福音書は、主イエス・キリストこそがまことのメシア、救い主だと伝えています。罪のもとにある私どもが、神のもとに生きるようになる救いをもたらす救い主を、主イエスを取り巻く人々は信じていない。いやそれがわかっていたとしても、これまで自分たちが積み上げてきたものが壊されることを恐れて、主イエスを殺そうとしているのです。
主イエスはここで、言葉ではメシアであるとは言われていません。
しかしはっきりとご自身を言い表されました。ダニエル書にある「人の子」というメシアの称号を用いて、「しかし今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(69)と言われました。
このことは主イエスが、人となられた「まことの神」であるということです。しかし聞いていた者たちに理解できたかどうかですが、主イエスは十字架に殺されて後、復活され「人の子は全能の神の右に座る」と言われたのです。
聞いていた指導者たちは、すべては分からないにしても「ではお前は神の子か」(70)と問いました。
「神の子」という言葉を使っていても、聞いている者たちには主イエスが「神の子」だという信仰はありません。信じて言い表しているのではないのです。信仰告白とはなっていない。ですから主イエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」(70)と返答されたのです。
この箇所がとても大切なのは、「人の子」「メシア」「神の子」としての主イエスが、短い箇所に示されているだけではありません。そのような二度と現れないお方であっても、人は裁いて殺そうとする、人の罪の深さが明らかになっていることです。
主イエスを裁いて殺そうとしている人々の姿は、何か私どもとは違う、愚かな人たちの姿でしょうか。むしろ人の罪の姿がここに示されているのではないでしょうか。
私どもの罪深さは、人を裁き、自らを裁いていくところにあります。愛に生きて互いを生かそうとはしないで、簡単に批判し、裁いてしまうところがあります。そのことがここでは、神をも人は裁くという姿で示されているのです。
人の罪深さが示されているのとは対照的に、主イエスの愛の姿がここにも示されています。ののしられても、ののしりかえさず、かえって十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と赦しを与えられた主イエスの姿は、すでにこの箇所にもあるのです。
主イエスが捕らえられたときのことが、63節から65節にあります。「見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして。『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ。』と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。」
さまざまなことを言ってののしる者たちに対しても「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りつつ歩んでおられたと信じます。けっしてののしり返されなかった主イエスのお姿に、神の愛である主イエスが示されているのです。
そのことは、「人の子は全能の神の右に座る」(69)という言葉ともつながります。「人の子は全能の神の右に座る」とは、ローマ書にはっきり記されていますが、ご自身が受けた審きによって赦しを与えようと、執り成しておられるということです。
「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのために執り成していてくださるのです。」(ローマ8:34)
まことの人にしてまことの神である主イエスが全能の神の右に座って、今もなお私どものために「父よ、彼らをお赦しください」と執り成して祈っていてくださるのです。
私どもを審くことができるのは、主なる神のみです。
むしろ、主に審かれ正されることは恵みです。
礼拝において、共に御言葉に照らされることは、ある意味で審かれることです。しかしそこにこそ、主イエスが受けられた父なる神からの審きによって、私どもが赦されていく恵みが与えられるのです。
「人の子は全能の神の右に座る」と言われたことが、私どもが献げる礼拝においても実現しているのです。大きな恵みです。
絶えず、主の恵みに共に立ち続けていきましょう。

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