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2024年8月4日(日)平和聖日

聖霊降臨節第12主日

 

礼拝説教「過ぎ去らないもの」           


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書21:20-38


<讃美歌>

(21)26,3,371,81,499,65-2,29

 

 主イエスは、たとえを話されました。「いちじくや、ほかのすべての木を見なさい。」(29)と言われました。当時の人々が、いちじくの木に新芽が出ることによって、季節の移り変わりを感じ取った、それと同じように、時代がどこに向かっているか知るようにということです。

しかし主イエスは、思いがけない出来事が起こることの、単なる予報を話されたのではない、どんなことが起ころうとも、主なる神が救いの完成に向かって、大いに働いておられることを信じて待つようにと語られたのです。私どもは、時代がどこに向かっているか見定めているでしょうか。

 

 主イエス・キリストは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33)と語りかけられます。それは、「たとえ天地が崩れ去るようなことがあっても、神の言葉は決して崩れ去って空しくはならないということです。それほど神の言葉は確かなものであることを私どもは確信していきたいと思います。主イエスは神の言葉を語り、その言葉を生きて見せてくださいました。ですから主イエスは神の言葉そのものです。神の言葉そのものである主イエスは、滅びて過ぎゆくことはないのです。滅びないとは、過ぎ去らないという意味です。主なる神は、過ぎゆくことがない。そのことを私どもは、聖霊の助けによって確認できるのではないでしょうか。主は救いをもたらす確かなお方として、立ち続けてくださるのです。

 

 「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」(32)と主イエスは言われました。どういうことでしょうか。どんなに人が愚かで罪深くても、人が滅びや終わりをもたらすことはできないのです。主なる神のみが天地に終末のときをもたらすことができます。しかしその時は「あなたがたの解放の時」だと言われます。主なる神が私どもにやがて新しいとき、救いの完成をもたらしてくださるのです。そこへと向かっていることを、私どもは見定めているでしょうか。

 

 主イエスはどこへと向かっているか、見定めておられました。私どもは、そのような主イエスのまなざしに生きるときに、時代がどこへと向かっているか知りつつ生きることができるのではないでしょうか。主イエスは語りかけられました。20節21節「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退(の)きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」この主イエスの言葉が現実となったのは、ルカの教会の時代でした。

 実は、ユダヤ人がローマ帝国からの独立をかけて戦いを挑む、ユダヤ戦争が66年に起こってしまったのです。そのとき、伝えられるところによれば、キリスト者たちは、戦いに加わらずに、別のところへ移動したと言われます。戦いを逃れて、武器による平和をもたらそうとはしなかった。主イエスの言葉に従ったのです。ユダヤ戦争が66年に起こってしまったのですが、ローマ軍によって、70年8月30日には、エルサレム神殿が焼け落ちたと言われます。

 この朝は、平和聖日の礼拝をささげています。かつての初代教会のキリスト者が、主イエスの言葉に従って、戦いに加わらずに、別のところへ移動したこと、戦いを逃れて、武器による平和をもたらそうとはしなかったことにならっていきたいと思います。

 エルサレムにいたユダヤ人キリスト者たちは、ユダヤ人として武器を持つことよりも、キリスト者として、神がもたらしてくださる平和の時、解放の時を信じて、キリストの言葉に従う道を選びました。それは周りからは、ユダヤ人であることを捨てたと見なされたかも知れません。厳しい道を生きることになったでしょう。しかし主イエスの言葉を信じて、目を覚まして祈ったのです。主イエスが「目を覚まして祈りなさい」(36)と言われた御言葉に従ったのです。現実の厳しさのみに心を奪われるところから救われて、28節にあるように「身を起こして頭を上げ」、主を見上げたのです。主が時をもたらしてくださることを信じたのです。

 

 私どもも、どのようなときにも、厳しいときであればあるほど、「身を起こして頭を上げ」主なる神の確かさに自らをあずけていきたい。

 主イエスはここで、私どもに平安を与えようと、福音の言葉を語りかけておられます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

自分たちの力や経験によって、成し遂げようとするのではなく、主なる神の救いの確かさに逃れていくことがゆるされているのです。「山に逃げなさい」と主は言われました。山に逃れて彼らは祈ったことでしょう。それは、神のもとに逃れることでもありました。

 

 詩編131編を思い起こします。131編の2節には、「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」とあります。母のふところに抱かれる幼子のように、私どものことが歌われています。神のもとに逃れて、母のふところに安心しきって抱かれる幼子のように、神の平安を生きることがゆるされているのです。

 131編には、「わたしは魂を沈黙させます。」と告白されています。これは安らかで静かな魂の姿を、沈黙として言い表しているのです。むりやり黙らせているのではありません。ただ私どもは、自らの心が騒ぐことがあります。自分のいたらなさを思うとき、誰が神の前に立つことができるだろうかと思います。しかしそのようなとき、私どものために、いつも目を覚まして祈り、執りなしてくださる主イエスがおられることを思い起こす必要があります。主イエスによって与えられる、罪の赦しの恵みに生きることができるのです。

ルカによる福音書21章36節で主イエスは、「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と言われました。「いつも目を覚まして祈りなさい」、私どもが目を覚まして祈ることは、いつも目を覚まして祈っていてくださる主イエスを見上げて、信じて祈ることではないでしょうか。主イエスこそが私どもを目覚めさせてくださり、過ぎ去らないものにまなざしを向けさせてくださるのです。

 かつて詩編は131編の3節にあるように「主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」と呼びかけました。その恵みの言葉を、私どもは主イエスの言葉として聞くことができます。主イエス・キリストが、平安をもたらそうと、語りかけてくださっているのです。先ほど言いましたように、主イエスは、「目を覚まして祈りなさい」と言われました。その御言葉が、詩編の言葉と重なるのです。「主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」

 目を覚まして祈り、主を待ち望んで生きるときに、主なる神が私どもにやがて新しいとき、救いの完成をもたらしてくださる、そこへと向かっていることを、見定めていくことができるのです。

いや私どもに先立って、主イエスは時代がどこへと向かっているか、見定めておられます。主の御言葉を共に聞きましょう。

「目を覚まして祈りなさい」「主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」

この主の御言葉に、聖霊の助けによって生きて、主のまなざしに共に生き続けていきましょう。



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