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2024年8月25日(日)

聖霊降臨節第15主日

 

礼拝説教「イエス様の祈り」             


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書22:24-34


<讃美歌>

(21)26,11,521,530,65-2,29

 

 聖書で恵みという言葉はとても大切な意味があります。何度もその意味合いを確認する必要があります。また、理解するだけではなく、恵みを生きていく必要があります。

恵みは、私どもにそれを受け取る理由がないのに、主が与えてくださるものです。新約聖書ではカリスという言葉で、その語幹のカルという言葉は、上より(すなわち神様から)与えられるものいう意味があります。ルカが主の恵みと信じていた、その最も大いなることは、主イエス・キリストの十字架による救いです。ルカによる福音書全体が、恵みとしての主イエス・キリストの十字架による救いを伝えています。

 

 主の十字架によって、救いが恵みとして私どもに分け与えられました。主イエスが私どもに代わって、罪の審きを十字架の上で受けてくださったから、それによって私どもが罪を赦されて、救いを受けることができるようになったのです。主イエスがその救いを成し遂げて、恵みを分け与えてくださいました。食卓にたとえるなら、主イエス自ら、恵みを給仕してくださったのです。

 弟子たちは、そのような主イエスが備えてくださった最後の晩餐の席で、だれが自分たちの中でいちばん偉いかという議論をしていました。主が命をささげられる思いをもって弟子たちと食事をなさっている席では、全くふさわしくない会話です。主イエスが与えようとなさっていた恵みを全く理解していなかった。しかしそのような弟子たちのことを、ルカは「使徒たちは」と記しています。そんな乏しい弟子たちを主イエスが恵みによって「使徒たち」として用いて、教会の初めの頃を築いていったからです。

 

 主の復活後、神の霊である聖霊を受けた使徒たちは、聖霊の助けによって、主の御言葉を理解するようになりました。だれがいちばん偉いかではなく、主イエスこそが救い主であって、確かなお方であること、主イエスによって恵みが給仕されることを信じて生きていった。使徒たちは主の恵みの証人として、恵みを生きていったのです。

 

 主イエスは、十字架を目前にひかえた最後の食卓で、使徒たちの内にすでに働いている主の恵みを、しっかりと見つめておられました。

「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」(28)      

 主イエスが「試練」を受けられたとありますが、これはむしろ「誘惑」と訳すべき言葉です。サタンが荒れ野で主イエスを誘惑したときの「誘惑」と同じ言葉です。どんな誘惑でしょうか。

 

 サタンの主イエスへの誘惑の一つは、サタンにひれ伏して拝むなら、この世の富や名誉を与えようというものです。その誘惑は、主イエスと弟子たちに対して絶えずありました。人々が主イエスのもとにおびただしく集まり、ローマ帝国から自分たちを解放して独立させてくれる救い主として立ち上がってほしいと願っていました。それはつまり軍隊を率いる英雄としての救い主の姿を人々は思い描いていたということです。

 しかし弟子たちも、主イエスと共に踏みとどまったのです。すでに弟子たちは、主の恵みに生きていました。その恵みは、サタンがふるいにかけても途絶えることがなかった。弟子たちの愚かさや罪深さによっても、主の恵みはなくならなかったのです。

 

 主イエスは弟子たちと共に最後の食事をされて、弟子たちに対して「イスラエルの十二部族を治めることになる」(30)と語られています。すぐにはピンと来ないような言葉ですが、これは、新しいイスラエルとしてのキリスト教会のことを指していると理解できます。使徒たちによって、主の教会が建てあげられていったのです。そして今に至っています。

 

 主の恵みを私どもは、教会として受け継いでいます。そして、私ども教会は、礼拝によって生きています。

 礼拝において、主イエスが恵みを給仕してくださいます。私どもは共に座って、礼拝で恵みを分け与えられています。その恵みの営みを支えておられるのも、主イエス・キリストです。主イエスが祈っていてくださるからです。私どもに先立ち、私どもに代わって祈っていてくださる。だから、共に生き、共に教会生活を生きることができるのです。共に主の恵みを生きることができるのです。繰り返しになりますが、礼拝において、主イエスが恵みを給仕してくださっていることを思い浮かべ、感謝しながら生きていきましょう。

 

 主イエスは、すでに弟子たちの中にある恵みを知っておられました。それは、ペトロに対してもそうです。ペトロに主はあなたのために祈っていますと、と語られましたが、それは大きな恵みです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(32)と主は言われました。ペトロは、そのときにはすぐにわからなかったですが、やがて三度も主イエスを知らないと言って逃げてしまいました。しかしペトロは、主イエスが祈ってくださったという恵みによって立ち直ることができたのです。やがて中心的な使徒として、教会を建てあげていったのです。主の恵みを生涯をかけて伝えていきました。


私どもも、自分に与えられた主の恵みを、自らの中にとどめることなく、伝えていきたい。私のようになってほしい、私のように、主の恵みを受け取って欲しい、と伝えていきましょう。そのようにして、主イエス・キリストと共に礼拝で恵みを伝えていきましょう。



 
 
 

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