2024年8月18日(日)
- shirasagichurch
- 2024年8月18日
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【聖霊降臨節第14主日】
礼拝説教「感謝の祈り」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書22:14-23
<讃美歌>
(21)26,13,208,436,65-2,29
氷山の一角という言葉があります。氷山の見えている一角は、氷山全体のほんの一部であって、見えていない水の下にとてつもない大きな氷山があるということにたとえて、見えていること、知りえていることはわずかな部分でしかないということです。主の恵み、主の助けについても、氷山の一角という言葉が当てはまります。これまでいかに主に助けられ、担われてきたか、私どもが知りえているところは氷山の一角ではないでしょうか。主に助けられていることを、すべて知り尽くしていないことをどこまで自覚しているでしょうか。
有名なイザヤ書の46章4節にあるように、主は「わたしが担い、背負い、救い出す。」とさえ言われます。「わたしが担い、背負い」とあるように、神様がおんぶしてくださるというのです。自分では、それなりに努力してつとめている自覚があっても、知りえていないところで神様に助けられている姿は、まるでおんぶされているようなことかもしれません。主は「わたしが担い、背負い、救い出す。」と言われます。「救い出す。」これは、バビロンからの帰還をこの当時、意味したかも知れません。あるいは故郷への帰還のことを祈りながら、かつて出エジプトに導かれたことに思いをはせたことでしょう。出エジプトを成し遂げてくださった主は、この困難からも救い出してくださると信じたのです。
さて、与えられています箇所で、主イエスが弟子たちと共に過越の食事をなさっています。
かつて旧約の民が出エジプトをなして、救い出されたことを記念する食事です。神の審きが過ぎ越したので、過越の食事と呼んだのです。出エジプトというのは、奴隷の苦役を強いられたエジプトを出て故郷に帰還することができたということです。
主イエスは、過越の食事を弟子たちとなさりたいと「わたしは切に願っていた」(15)と話されています。「切に願っていた」とあるのは、元々の言葉では、切望をいだいて切望した、という強い表現です。「切に切に願っていた」ということです。
なぜそれほどに主は切に願われたのでしょうか。
「苦しみを受ける前に」(15)とあります。これは明らかに十字架のお苦しみのことです。主が十字架におかかりになり、私どもへの神の審きをその身に受けて、過ぎ越させようとなさいました。事実それは過ぎ越され、罪の赦しの福音を弟子たちは宣べ伝えていったのです。ルカがこの福音書を記した頃には、すでに教会が使徒たちによって形成されていました。主の福音に生きていく、その喜びと感謝をもって記しているのです。
先ほど言いましたように、主イエスは使徒たちと過越の食事をなさっています。しかし主イエス・キリストは、その過越の食事において、新しい食事を、聖なる食事、聖餐を生み出していかれました。それがこの箇所です。
過越の食事にはなかった、新しい主イエス・キリストの聖餐制定の言葉があります。19節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」
聖餐にパンをいただくことは、キリストの体をいただくことです。それはキリストのいのちを受け継ぐということです。キリストとつながって生きること、キリストとつながるということは、キリストの体の一部とされることです。それは、私どもが担っていることを、主はご自身のものともしてくださるということです。私どもがすべてを担うのではなく、キリストが共に担ってくださるのです。キリストが「わたしが担い、背負い、救い出す」と語りかけてくださる恵みに生きることができるのです。
さらに20節にあるように主イエスは語りかけられました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」「わたしの血による」とは主イエスの十字架によって、神の審きが過ぎ越されたことです。その救いを受け取ることは、神の赦しを、感謝をもって信じて受け取ることです。それは「わたしの記念として」と言われたことにつながります。「わたしの記念として」という御言葉は、とても重要です。
「わたしの記念として」すなわち主イエスの記念として、パンと杯を受け取るということは、信仰をもって、キリストの弟子としていただくということです。ですから聖餐において、パンを食し、杯を飲むことは、自らがキリスト者であることを公に言いあらわすことでもあります。洗礼を授けられてから、あるいは幼児洗礼ののち信仰告白をして受け取って、はじめて意味のあるものとなるのです。
最後に、主イエスは大きな痛みをもって語っておられます。
「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」(21)これは、イスカリオテのユダのことで、聖餐のあとに言われた言葉です。ということは、主イエスは、自らのいのちを受け継がせていく聖餐、神の赦しにあずかる食事を、実にユダにも与えられたということです。敵をも愛する愛を貫かれました。それは、十字架の死に至るまで、貫き通されたということです。
聖餐は、先ほど申しましたように、洗礼を受けた者、あるいは幼児洗礼ののち信仰告白に至った者が受け取ります。しかしそれは資格があるからではありません。聖餐にあずかる者は、自分にはこれを受け取る資格がないことを絶えず知り続ける必要があります。私どもに受け取る資格がないにもかかわらず与えてくださる主の恵みとして、聖餐にあずかるのです。
説教の最初で、私どもがどれほど主に助けられているか、すべてを知ることはできないし、知っていること、実感していることは、氷山の一角だと言いました。そのことは、主の恵みのことだと言い換えることができます。私どもを神の愛によって導いてくださる、主の恵みは、神の助けでもあります。私どもを憐れみ助けてくださる、主の恵みはとても知り尽くすことはできないのです。
聖餐も、私どもに受け取る資格がないにもかかわらず与えてくださる主の恵みとしてあずかります。一方的な神の愛によって、私どもに受け取る資格がなく与えてくださる、主の恵みの中心には、聖餐と共に、主の御言葉があります。ですから、礼拝の中心は、説教と聖餐だと言われます。
主イエスがいのちを献げ、神の審きを過ぎ越させる血を流されたことを信じて、感謝をもって主の恵みを受け取り続けていきましょう。聖餐のパンと杯を受けとることがない礼拝においても、私どもは聖餐卓を礼拝堂の中心に置いて、礼拝を献げます。それは、聖餐の恵みのもとで礼拝を献げるということですし、さらに言いますと、主の御言葉によって、主の聖なる命と赦しを受け取っていくのです。ですから、一方的な神の愛によって、私どもに受け取る資格がなく与えてくださる、主の恵みの中心には、聖餐と共に、主の御言葉があります。
礼拝において私どもは、主イエスから差し出される恵みを、キリストの弟子として感謝していただくのみです。自分のような者がこの恵みにあずかっているのだから、あの人にもこの人にも、と主の恵みが広がるように祈り励んでいきましょう。

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