【聖霊降臨節第13主日】
礼拝説教「喜びの食事」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書22:1-13
<讃美歌>
(21)26,19,204,479,65-2,29
過越の食事を主イエスが準備されました。過越の食事というのは、もとをたどると3000年以上前のことになります。かつて旧約の民が出エジプトをなしたとき、神様の審きが過ぎ越したことを記念しての食事です。小羊を食し、パン種を入れない除酵のパンを食べました。
小羊を食するのは、小羊の犠牲の血を家の入口にぬり、神の審きが過ぎ越されたことによります。パン種を入れないパンを食べるのは、すぐに出発するためもあったでしょうが、パン種を入れて時間をかけてふくらませて食することをしないで、パン種ぬきのものを食べたからです。
主イエスは、その過越の食事の準備をされました。地上での最後の食事と言ってもいい、いわゆる最後の晩餐になったのです。主イエスは、過越の小羊として、自らが十字架にかかる覚悟をなさっておられました。
過越の小羊が出エジプトのとき献げられ、神の審きが過ぎ越したように、主イエスが過越の小羊として、私どもに代わって神の審きをその身に受け、私どもにくだるべき審きを過ぎ越させようとされました。それは、とこしえまでも過ぎ越させようと命を献げられたということです。
もちろん弟子たちは、その神の御計画を全く知るよしもありません。ペトロとヨハネは主イエスから準備するようにと遣わされました。出かけるそのとき、主イエスはひとつのしるしを与えられました。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。」(10)と。なぜそれがしるしになるのだろうかと思われるかもしれません。当時、水をくんで運ぶのはたいてい女性でしたから、水がめを運ぶ男はすぐに見つかったかも知れない。その主人に「先生が『弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか』と」問うていますと言えば。席の整った2階の広間を見せてくれるというのです。そして、実際に出かけてみると、果たしてその通りでありました。
主イエスは主なる神であるので、どこかの主人の心を動かして、そのような支度をさせたのでしょうか。またある有名な神学者は、主イエスはひそかに、この主人に頼んでおられたのではと言います。
いずれにしても、主イエス自らが、過越の食事の準備をすべて整えてくださったのです。
ルカによる福音書には、全く対照的に思えることが並んで記されています。22章の1節からは、同じく準備がなされているのですが、それは、どのようにしてイエスを殺そうかという準備です。
「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」(2)とあります。
過越祭のときには、民衆がおびただしく集まりました。その民衆に人気があり、大勢の弟子たちがイエスに従っている。いまこの過越祭のときに、イエスを殺そうとしたら民衆が反対するのが恐ろしい。神を畏れないで、人を恐れていたのです。最も主なる神に近くにいたはずの彼らが、人を恐れる心に支配されていました。私どもも考えさせられる罪の姿です。
さて、5節に彼らは喜んだとあります。祭司長たちや律法学者たちは喜びました。思いがけず、ユダという助けが入ったからです。12弟子のひとりで、イスカリオテのユダが裏切って、主イエスを引き渡すと約束したのです。
ユダがなぜ裏切ったのか、いまだに謎です。聖書も動機を語っていません。ルカもあまり興味がない。ただ「サタンが入った」とだけ記しています。悪しきものの力、罪に負けてしまった。あるいは、いつわりの喜びに加わった。しかしその喜びは、空しく、続かなかったのです。
一方で主イエスは、ユダの裏切りをも、祭司長たちや指導者たちの企てをも飲み尽くし、勝利を与える救いの道を準備していかれました。主イエスが準備されたもの、救いの道は、今に至っているのです。
主イエスが十字架の上で殺されたとき、弟子たちは絶望し、生きていく希望がなくなってしまって、ここから何も生み出されないと思ったことでしょう。しかし、主イエスは十字架の死に終わることなく復活され、過越の食事で準備された道、救いの道は今に至っているのです。主イエスが準備された食事は、喜びに至る食事です。喜びの礼拝へと至る食事です。
神の審きが過ぎ越されたことを祝う礼拝が、今に受け継がれています。主イエス・キリストによって、神の審きが過ぎ越され、主が復活されたことを祝う礼拝が共に献げられているのです。旧約の民が、出エジプトを感謝し続けたように、私どもも罪赦された救いを共に感謝して生きることができるのです。主イエスによって与えられる喜びは途絶えることはないことを信じていきましょう。
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