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2024年7月7日(日)

聖霊降臨節第8主日

 

礼拝説教「救い主のとりなし」            


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書20:41-44


<讃美歌>

(21)26,2,280,432,65-1,29

 

 この朝与えられています箇所で、「どうしてメシアがダビデの子なのか。」(44)と、主イエスが問いかけられています。

 この問いかけは、すぐには私どもと結びつかないと思われるかもしれません。あるいは主イエスの問いかけそのものが、分かりにくいかもしれません。しかし、福音の中心的なメッセージが、この問いから発せられているのです。ごいっしょに、主イエスの福音の語りかけに思いを深めていきましょう。

 

 「どうしてメシアがダビデの子なのか。」

メシアというのは、旧約聖書の言葉をカタカナにしていますが、救い主の意味です。人々が待ち望んでいたメシア(救い主)は、ダビデの子として待望されていました。福音書を記した者たちも、主イエスがダビデの家系に属していたことを証言しています。しかしもう一方で、「ダビデの子」という言葉に込めた、人々の強い思いがありました。それは、ローマ帝国の支配から人々を解放するような政治的なメシアという意味での期待です。

 

 私どもは当時のユダヤ人のように、どこかの国からの独立を願う立場ではないかもしれません。しかし「ダビデの子」としてのメシアというのは、この世の苦しみや問題から私どもを解放してくれるメシアということにつながっていきます。主イエスは確かに、病を癒し、人々の痛みや苦しみに寄り添っていかれました。しかし、そのような苦しみからの解放そのものを救いとはなさらなかったのです。その当時、地上から病をなくそうとされたのではないのです。たとえ病気がなくなっても、それが私どもの救いとなるでしょうか。この問いは、とても深刻だと思います。病によって私どもは、しばしば苦しみ、愛する者や親しい仲間との別れを経験するからです。

 主イエスは、私どもが生きていく中で、病のときも、苦難のときも、そこに共にいてくださる主の救いを与えられました。主なる神に受け入れられ、すべてを赦されて受け入れられ、私どもが救いの恵みを生きるようにしてくださったのです。

 

 教会は、主の救いを宣べ伝える使命を与えられています。

 主イエスが福音を全世界に宣べ伝えよと命じてくださったからです。もちろん、苦しみや悩みに寄り添って生きることは大切です。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)と主イエスが命じられたからです。しかし忘れてならないのは、礼拝からすべては始まることです。礼拝で、主の福音が宣べ伝えられ、私どもの生きる源となっているのです。この喜びに、ひとりでも加わってほしいと願う祈りを強くしていく必要があります。

 

 さて主イエスはこの箇所で、どのようなときを過ごされているでしょうか。それは、いわゆる受難週の歩みをなさっています。この週のうちに、十字架におかかりになるのです。

 これまでは自らがメシア(救い主)と呼ばれることを、主イエスは避けてこられました。それは、「ダビデの子」という、民衆が考えているような、力に対して力で対抗して、軍隊を用いてでも解放するようなメシアという誤解を避けるためです。しかし十字架がいよいよ近づいたとき、主イエスは自らがメシアであることを、はっきりと示されました。

 

 主イエスが、ご自身が主なる神から「わたしの右の座に着きなさい。」(42)と言われたメシアであることを明らかにされました。

 

 「わたしの右の座に着きなさい。」とは、詩編110編1節からの引用です。「神の右の座に着きなさい」というのは「神の右の座に座りなさい」ということです。神の右の座に座られた主イエス・キリストは、どのような働きをなさっているのでしょうか。ルカによる福音書が記されたころは、主イエスはすでに十字架におかかりになった後、復活されて救い主としてお働きになっていました。ローマ書8章34節にはこうあります。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活なさった方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

 父なる神の右に座られた主イエスが、恵みをもって支配しておられるのです。そのご支配は、病のときも、苦難のときも、苦難や病のただ中で、なおも働きかけてくださる恵みのご支配です。その恵みのご支配の中で、主イエスは、私どものために祈っていくださる、とりなしの祈りをしてくださっているというのです。主イエスのとりなしの祈りによってもたらされる恵みによって、いかなるときにも働きかけて導いてくださるのです。

 

 主イエスのとりなしの祈りは、すでに十字架の上で始まっていました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」(23:34)主イエスが、苦しみの極みで祈られたとりなしの祈りは、なおも、天において、神の右の座で続けられているのです。

 

 主イエスが祈っていてくださるのは、私どもにとって、かけがえのない希望です。そればかりか、主イエスと共に祈る恵みが教会に与えられています。主イエス・キリストが、今もなおとりなしの祈りを献げてくださっている。その主イエスの祈りに私どもも連なって共に祈るのが、礼拝の祈り、とりなしの祈りです。そのような祈りの中身は、主イエスが「こう祈りなさい」(マタイ6:9)と与えてくださった「主の祈り」です。礼拝の中で欠かさずに祈ります。

 主イエスが右の座について、今もなおとりなし、恵みをもって導いてくださっている。その恵みの主の働きに仕えて、私どもも祈り、礼拝を献げていきましょう。



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