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2024年7月28日(日)

聖霊降臨節第11主日

 

礼拝説教「忍耐のたまもの」           


願念 望 牧師

 

<聖書>

詩編130:1-8

ルカによる福音書21:10-19


<讃美歌>

(21)26,10,211,532,65-1,29

 

 「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」、そう主イエスは語りかけられます。19節で「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と語りかけられた主イエスこそ、語られた御言葉を生きぬかれました。忍耐によって歩みぬかれ、私どものために救いの命をかち取ってくださったのです。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」、この御言葉を、主イエスが命をささげて与えてくださったことを信じて、ご一緒に主の御言葉に導かれていきましょう。

 

 「忍耐によって」。忍耐とは、耐え忍ぶことですが、私どもが学び続けていることでしょう。もし主イエスが「忍耐によって」と語りかけられたとき、その忍耐は、私ども自身が、ひたすら辛抱して耐え忍べるかどうかにかかっているのでしょうか。決してそうではなく、主イエスが言われる「忍耐によって」とは、神様の助け無しにはあり得ないことです。主イエスは、神様の助けの中で、福音の言葉として「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われるのです。くり返しになりますが、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」という、福音の言葉を聞き取る必要があります。

 「忍耐によって」というその意味は、「忍耐の中にあり続ける」ということです。忍耐の中にあり続けるとしたら、私どもの忍耐の源はどこにあるのでしょうか。

 

 冒頭で、主イエスが愛をもって語りかけられておられると言いました。神様が私どもを愛して導いてくださることは、主なる神こそが、忍耐の中にあり続けておられることではないでしょうか。私どものようなものを愛して導き続けてくださるときに、主なる神の忍耐なしにはあり得ないのです。ですから、私どもが主の御言葉に従って「忍耐をもって」生きようとするときに、その忍耐の源は、神の愛にあるのです。愛の章と言われるコリントの信徒への手紙Ⅰの13章には、4節に「愛は忍耐強い」とあります。

 神の愛の中身は忍耐です。7節に「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあるような、忍耐の中にあり続けることは、神の愛を受けていく恵みによってこそ、なし得ることであります。

 

 このとき主イエスは神殿におられました。そこにいた弟子たちに12節で「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」と言われました。ルカが福音書を記したのは80年頃と言われますが、その頃もそうですが、しばらくして迫害に次ぐ迫害の時代がおとずれました。90年代のドミティアヌス帝の迫害がそうです。

 16節で「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。」と、主イエスが言われた言葉が現実となりました。

 

 しかし、「中には殺される者もいる」と言われるもう一方で、18節で「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と主イエスは語りかけられます。不思議なことなのですが、どういうことでしょうか。

 主イエスは、たとえとして「髪の毛一本も失われない」神の恵みによって守られていることを言われました。それは、たとえ肉体の命を奪われたとしても、なお全く失われない命があることを約束されました。だから「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われたのです。

 

 主イエスは、神殿におられて、人々が立派な神殿に見とれているときに、この神殿が崩れ落ちる日が来ることを語られました。それは、崩れ落ちないものがあるからです。

 主イエスは「あなたがたは命をかち取りなさい」と言われます。

 だれも奪うことができない救いの命があるからです。

 

 迫害の時代だけではありません。むしろ、現代の方が、信仰を失いやすいかも知れない。信仰の命、救いの命の中に、忍耐を持って、祈りつつあり続けるようにと、主は愛をもって語りかけてくださるのです。

 最初にお話ししましたように、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と語られる主イエス・キリストこそ、忍耐をもって命をかち取られたのではないでしょうか。

 

 主イエスこそが、忍耐をもって、私どものために救いの命をかち取られたお方です。十字架の上に殺されても、なお、だれも奪うことのできない、神の命に生きて復活され、その命を私どもにも分け与えてくださった。それはあり得ない主の恵みです。

 

 使徒信条に、「聖徒の交わり・・・を信ず」と告白しています。聖徒の交わりとは、聖徒と呼ばれる信徒、教会員の交流のように考えられるかもしれません。しかし「聖徒の交わり」とは、礼拝において、聖徒が主との関係に生きてその命の交わりをいただくことです。しかも、聖徒とは、先ほど言いましたように、信徒のことで特別な者ではありません。キリスト者は、救われて神のものとされたという意味で聖徒なのです。あり得ない、もったいない恵みです。

 

 救われて神のものとされた、そのもったいない、あり得ない恵みが主イエスの忍耐によってかち取られて、私どもにもたらされました。私どもの忍耐を考える前に、主イエス・キリストの忍耐をこそ、思い巡らせるべきです。主イエス・キリストの忍耐、その愛を信じていくときに、私どもの内にも、神の愛に生きる思い、忍耐が生まれてくるのではないでしょうか。

 

 主イエスの愛の忍耐によって、私どもは生きていくことができるのです。主イエスの愛による忍耐とつながって、私どもは救いの命の中に生き続けていきましょう。



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