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2024年7月14日(日)

聖霊降臨節第9主日

 

礼拝説教「喜ばれた献げもの」           


願念 望 牧師

 

<聖書>

ルカによる福音書20:45-21:44


<讃美歌>

(21)26,18,120,512,65-1,29

 

 主イエスは、エルサレムに来られて、十字架へと向かっておられます。受難週の歩みの中での今日の箇所です。想い起こすことは、エルサレムに来られてすぐに、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」(19:46)と語られたことです。その言葉を、礼拝が献げられる神殿で語られました。

 「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とは、私どもへの主の語りかけでもあります。主イエスが、「わたしの家」として、私ども教会を祝福してくださるのです。「祈りの家」としての祝福は、今もなお礼拝において与えられています。「祈りの家」として私どもが生きるときに、まず何を礼拝の中心としているでしょうか。

 礼拝の中心は、神の言葉です。聖書の言葉から、共に神の言葉を聞いていく、そこに祈りが与えられるのです。感謝の祈りであり、悔い改めの祈りであり、神を神としてたたえていく祈り、主の御心を祈り求めていく祈りです。神の言葉なしに、祈りの家として生きることはできないのです。

 ご一緒に、祈りの家として生きることができるように、今日与えられています箇所に思いを深めていきましょう。

 

 「祈りの家」として私どもは整えられ、主に導かれる必要があります。この箇所には、主イエスが注目された二人の姿が記されています。

 ひとりは、主イエスが「律法学者に気をつけなさい」(46)と言われた、律法学者の祈りです。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」(47)とはどういうことでしょうか。社会的に最も弱い立場にいたやもめを、保護する立場にいた彼らが、相談を受けることによって不当に利益を得ていたのかもしれません。「見せかけの長い祈り」とは、偽りの祈りであって、神に向かって祈っているのではない、人に見せるための祈りだということです。彼らは、祈りの中身がないことを、その長さでごまかして、うやうやしく見せかけていたとしたら、とても空しい祈りです。


 主イエスは「気をつけなさい」と言われます。祈りは、神様に向かって祈るのであって、人に聞かせるためではないのです。子どもの頃の思い出ですが、寝る前に家族で集まって祈っていました。祖母が祈っていたのですが、とても熱心な祈りでしたが、よく聞き取れなかったので、私は「よく聞こえない」と言いました。すると祖母は、「あなたに聞かせているのではない」と言われてびっくりしました。集まって祈っているのに、わかるように祈ってくれてもいいのにと、子どもながらに思いました。

 もちろん、私どもは祈るときに、言葉にならない祈りを祈ることがあります。うめくような祈りのときもあるでしょう。しかし、言葉にならないような祈りをも、主は十分に聞きとってくださると信じて、礼拝で心を注ぎだすことができるのです。

 心を注ぎだして祈った、その祈りの姿を思い浮かべることができるのは、ある貧しいやもめです。 

 主イエス・キリストが、ひとりのやもめのことを、とても喜ばれました。彼女はレプトン銅貨2枚を献げました。「乏しい中から持っていた生活費を全部入れた」(4)とだけあります。祈りの言葉も、祈ったことも書かれていません。しかし、礼拝で献げものを心を込めて献げ、またそのことを主イエスが喜ばれました。ふさわしい祈りが伴っていたはずです。「見せかけの長い祈り」ではなく、神に喜ばれる祈りがそこに献げられていたのです。

 

 立ち止まって考えたいのですが、主イエスはどうして、やもめのことを喜ばれたのでしょうか。

 金持ちの献金は、心からの祈りを伴っていなかったのでしょうか。考えられるのは、多く献げることで人からの名誉を求めていて、有り余る中から、彼らにとってはわずかなものを献げたのかも知れません。そこにある思いは、見せかけの信仰ということになってしまいます。

当時の献金箱についてこんな話を聞きました。一説には、12個の献金箱が並んでいたそうですが、それぞれに献金の目的が書いてあったようです。たとえば、神殿の修繕のためといった具合です。そして、たくさんの献金を献げる人がいたときには、献金箱の前にいる人が手に持った鐘を鳴らして、〇〇さんがいくら献金しました、と大きな声で叫んだそうです。しかし、13番目の献金箱には目的が書かれておらず、隅っこにありました。あるやもめは、その隅っこの献金箱にひっそりと献げたのではと思います。

 しかしやもめの献金は、そのとき持っていた生活費全部だったようです。レプトン銅貨2枚は、いまのお金にして100円か200円ぐらいと言われます。わずかでも大切なお金です。たとえわずかでも、いつも生活費全部を献げたら生きていけません。主イエスもそれを求めてはおられないはずです。では主イエスは何を喜ばれたのでしょうか。

 「生活費」と訳されている言葉は、「いのち」「いのちそのもの」という意味があります。ひとりのやもめは、おそらく、生活費全部を献げている自覚はなかったのではないか。彼女は、その日をふり返りながら、今日一日を生きることができたことを主に感謝しながら、また明日も主よ、あなたが私を生かしてくださる、と信仰を抱いて祈りながら、自らのいっさいを主にゆだねる喜びに生きることができました。そのことを主イエスは喜ばれたのです。

 

 ある神学者は、主イエスがやもめのことを喜ばれたのは、これから主イエスがなさろうとすることと彼女の姿を重ねて喜ばれたというのです。十字架の上に、すべてを献げてくださったことは、生活費を全部献げることに、はるかにまさることです。生活費を全部献げ続けたら生きていくことはできないように思われますが、主は十字架の上にすべてを献げ、私どもにその救いを与え尽くしてくださいました。

 主は十字架の上にすべてを献げ、私どもにその救いを与え尽くしてくださいました、その尊い神の愛に私どもはどう応えるでしょうか。

 主にその献げものを喜ばれた女性のようのことを思います。彼女の祈りは、献身の姿を伴っていました。生活費は、「いのち」とか「いのちそのもの」という意味があると言いました。私どもの大切な「いのち」を主にゆだねて祈ることは、主が喜ばれる献げものです。そこに、祈りの家としての主に喜ばれる歩みがあります。そのような、主にゆだねて生きる歩みを与えてくださるのも、主の深い愛による恵みです。

 私どもは教会という祈りの家として、主に私どものいっさいをゆだねて生きる幸いに生きていきましょう。



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