【聖霊降臨節第4主日】
礼拝説教「天からのもの」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書20:1-8
<讃美歌>
(21)26,17,127,509,65-1,28
与えられています箇所は「ある日」という言葉で始まっていますが、どのような日だったのでしょうか。読み過ごしてしまう言葉です。
直前の19章の47節に「毎日、イエスは境内で教えておられた。」とありますが、エルサレムにある神殿の境内のことです。しかも主イエスは、十字架に向かって歩んでおられます。すでに、「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」(19:47)とあるように、この週のうちに主イエス・キリストは、十字架におかかりになります。ですから「ある日」とは、主イエスが十字架におかかりになった、受難週と呼ばれる週の「ある日」のことです。ご一緒に、「ある日」の出来事に思いを深めていきましょう。
「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て」(1)とあります。「祭司長や律法学者たち、長老たち」というのは、ユダヤのサンヘドリンという最高議会のメンバーたちです。ユダヤの指導者たちが主イエスに問うたのです。
「何の権威でこのようなことをしているのか」(2)
この問いは、純粋に質問しているのではなくて、福音を告げ知らせておられる主イエスを裁くようにして、詰め寄っているのです。誰の許しがあって、私たちに許可なくこのようなことをしているのかということです。
「このようなこと」とは、直前の19章にある、神殿で商売をしていた人々を主イエスが追い出し始めて、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と語られたことを中心に問いかけていると思われます。
ここで起こっていることは、すなわち「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と主イエスが語りかけられたことは、この当時の指導者たちのもっていた権威と主イエスの権威とが、ぶつかっているのです。民の指導者たちの権威は、地上に属する、人からのものですが、主イエスの権威は地上には属さない、天からのものなので、誰も主イエスの持っておられる権威をどうすることもできないのです。全く人からは自由な、天からの権威です。
「権威」と訳されている、エクスーシアは、エクスという、「外に」という意味の言葉がついています。人の外にある、天の権威です。その天の権威によって、主イエスは福音を告げ知らせておられたのです。
そのことを言い含めるようにして、主イエスはお答えになりました。次の言葉をよく聞くと、主イエスがお答えになっていることがわかるのです。
「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(3)
言い含めるようにして主イエスはお答えになったのです。尋ねておられるようでありながら、主イエスご自身、人からの権威ではなく、天からの権威でなさったことを語っておられます。また、「人からのもの」と主イエスが言われたように、当時の指導者が、人からの権威によって生きていたことをお示しになったのではないでしょうか。
人からのものに生きていた、民の指導者たちはうろたえました。自由ではなかったのです。ヨハネの洗礼は、天からのものと言えば、主イエスを受け入れることになる。しかし「人からのもの」と言えば、民衆から石を投げられて殺されることを恐れました。
イエスを殺そうと詰め寄ってきた民の指導者たちが、逆に民衆に殺されるかも知れないと恐れたのは滑稽と言うべきことです。彼らは、はっきりと答えることを避けて「分からない」(7)と言ったのです。
私どもは、人からのものによって生きるときに、逆に人を恐れて生きることになるのです。しかし天からのものによって生きるとき、人を恐れて生きることから自由にされていくのです。私どもは、人を恐れて生きるときに、悩んだり行き詰ったりするのではないでしょうか。主なる神をこそ畏れ敬って生きてときに、主の助けによって、私どもは自由にされるのです。心を安らぐことができるのです。
エゼキエル書37章に、有名な枯れた骨の谷の話があります。人々が「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11)と絶望しているときに、主は語りかけられました。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生きる。」(4・5)そして、そのことが実現するために「一人の牧者が彼らすべての牧者となる」(24)と預言されています。この言葉は、主イエス・キリストによって成就したのです。私どもの一人の牧者である主イエスが、私どもすべての牧者として、権威をもって導いてくださるのです。希望のないところに希望をもたらし、枯れた骨の谷のように、命を失ったところに、復活の命をもたらしてくださるのです。
権威、エクスーシアは、力という意味もあります。力ある権威です。しかし主の力は、人の力とは違う。力に力で対抗していくようなものではなく、神の愛によって動かす力です。福音を告げ知らせていく力、私どもを福音に生かす力であって、神の愛の力によって、私どもを動かし生かしてくださる、力ある権威なのです。先ほど言いましたように、希望のないところに希望をもたらし、枯れた骨の谷のように、命を失ったところに、復活の命をもたらしてくださる権威です。それは天からのものです。
「わたしの家は祈りの家」だと、主イエスは愛ある権威を持って招いてくださいます。その祝福は、主イエスから、天からのものです。苦難の中から主に祈ると、主は私どもに答えて、主の愛の力によって動かしてくださるのです。
礼拝からはじまる生活を生きるのは、天からのものに生きる生活、主の祝福です。礼拝からはじまる日々の「ある日」を生きることができるのは、天からのものによることを忘れないで生きていきましょう。
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